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□恋する一週間
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始まりの月曜日


こじんまりとした店内を挽きたての珈琲の香りが満たしていた。使い込んだ焦茶色の家具は丸みがあって、しっとりとよく手に馴染む。夕刻の西日が、格子の窓から差し込んで全てをオレンジ色に染めていた。目の前には運ばれてきたばかりの甘さ控え目のミルクレープと、芳醇なブルーマウンテンが湯気を上げている。けれど、名前の手は先程から無造作に膝に置いたまま止まっていた。

お気に入りのこの店は、今流行りのカフェというよりは茶房といった雰囲気だ。女の子同士がお喋りに花を咲かせたり、カップルが待ち合わせに使うような感じではなかった。ここに来るのは一人客が多い。そのせいか名前にとっても落ち着ける場所だった。仕事が早く終わった日や休の日にふらりと訪れては、ゆっくりと美味しい珈琲を味わいながら読書に耽っている。

それなのに今の名前は、酷くそわそわしていた。意識は通路を挟んだ反対側の席に持っていかれ、視線を落としているテーブルの上には半分も残っていない。だから最初は珈琲の香りだけ楽しむとか、ミルクレープは三層ずつ食べるなんていつもの拘りもすっかり頭から飛んでいたのだ。

入口から入って来たその人が席に座るまでの間、時間が止まったような錯覚に陥った。

ゴトンゴトンと革靴を鳴らして通路を進み隣のテーブルの椅子を引いた彼は、名前とは遠めの対角に座った。少し目線を向ければ互いに直ぐ視界に入る位置だ。相手が手元に目を落としているのをいい事に、名前はこっそりと顔を上げた。

――彼を知っている。

もともと高かった背は更に伸びて、羽織っただけの黒いジャケットが引き締まった身体を一層すらりと見せている感じがした。絹糸のように滑らかな髪はずい分と長くなり、それでも変わらぬ艶やかさを保っている。それから、思考の読み取れないあの表情。

少年だった彼は大人の風貌へと変わっていた。頬杖を付いた手の甲もカップを掴む指先も綺麗な顎のラインも、雄々しくはなくともやはり男性のものだ。弧を描いた柳の眉の先端は長い前髪に隠され、その下にある漆黒の瞳は美しく伸びたまつ毛の陰に伏せられている。離れた場所に居ても感じる匂い立つような色香にどぎまぎした。

(やっぱりそうだ……)

彼が誰かに気付いたところで、ただそれだけだった。何度も視線を向ければ訝しく思われるだろう。だから名前は頑なに彼を見ないようにしたが、意識が戻ってきてくれなかった。感覚を研ぎ澄まして気配を探ってしまう。

きっと彼は自分を覚えていないだろう。そう考える事で動揺は最小限に留められた。彼に会ったのは十年も前で、交わした言葉はそれ程多くない。名前の方も忘れていたかも知れないのだ。

あの時彼がキスなんかしなければ。

珈琲を飲み終えた彼は伝票を取り上げて席を立った。漸く手をつけた飲み物に目を落とし俯いたままの名前の横を、長身の影が通り抜けてふわりと空気が揺れる。長居が多いこの店の客としては珍しい数分程の滞在だった。古びた扉が軋んで彼が出て行った事を教えられる。

振り返ると既に姿はなく、西日の眩しさに名前は目を細めた。高ぶっていた気持ちが下降を辿り、沈んでいくのは何故だろう。

視線は一度も合わなかった。









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