SS

□二度目の桜
1ページ/2ページ


「キルア見て。桜のつぼみがある」

春が来た。名前がゾルディック家に来て二度目の春だ。

「つぼみ?オレには何も見えないけど」

「よく見てよ。ほら、あそこ。枝の先に小さな膨らみがあるでしょう」

「あー」

「ちゃんと見えた?」

「まあ見えたけど、花のつぼみくらい、いちいち騒ぐことでもないだろ」

「この庭にたった一つの桜の樹だもの。咲くのが楽しみね。今年はいつ頃かな?」

「さあね。別に興味ねーし」

「キルアが教えてくれたんじゃない。キルアがわたしをここに連れて来てくれたのよ」

キルア、キルアーー名前の澄んだ声は歌うように名を呼ぶ。鈴の音のようだと思ったこともあった。耳に心地よいのに、どこか胸苦しい。面映ゆいようで、妙に苛立ちを覚えたりする。

「そうだっけ?……忘れた」

両のポケットに手を突っ込むと、キルアは名前から顔を逸らした。そのまま頭上を見上げれば、硬い土色の枝に芽吹いた小さな黄緑色のそれが目に入った。木の枝よりは幾らかましなだけで、まだ葉の塊のようなものだ。仄かに冷気を残す春風の下で小さく縮こまっている様は、綺麗とも面白いとも言い難い。

どういう経緯か知らないが、この広いゾルディック家の敷地内にはたった一本だけ桜の樹があった。大層枝ぶりの見事な、樹齢百年は優に超えていそうな大木だ。

キルアが物心付く頃には、春になると桜は当たり前につぼみを付け、当たり前の顔をして花を咲かせていた。緑色ばかりで他に彩りのない森の中で、それは異様な姿とも言えた。いつからあるのか、どうして一本だけなのか、誰にも聞いたことがなかった。

花の表情は毎年変わる。名前が来た去年は、嵐のように爛漫と乱れ咲いた。たった一本の樹木が付けた花とは思えない程、一面を薄紅色の花弁が埋め尽くした。




「キルア、あのね……」

名前が振り返る。

「合格したの。花嫁修業。昨日お義母様から正式にお話があったわ」

「へえ。よく一年も耐えられたもんだよな。よっぽどイル兄に惚れてんだ?」

意地悪く揶揄すれば、名前の表情が分かりやすく曇る。本当は知っているのだ。名前がゾルディック家に嫁ぐのは、自分の家族の為だ。厳しい花嫁修業に耐えたのも、親兄弟の幸せの為。愛情があるのは、むしろそちら側にだ。それを誰もが承知で、体裁と利害と感情とは別の諸々の事情で、形式的に結ばれる婚姻だった。

「式はお屋敷でするそう。家族と親戚と身内だけで」

「いつ?」

「10日後。それまでに、桜咲くかな……?」

「知らねーよ。興味ないっつったろ」

「名前」

不意に男の声がして、びくりと背中が震える。鼓動を跳ね上げたのは名前だけではなかった。ゆっくりと近付いてくる巨大な影に、身体が反射的に強張った。

「こんなところに居たんだ?ドレスのサイズ合わせするとかで、母さんが探してた」

「ごめんなさい。直ぐに行きます」

「キル」

名を呼ばれる。兄の声にはいつも、ずっと昔から日々蓄積された、恐らく兄自身も既に無意識の威圧感が伴っていた。目の前に立ちはだかる壁のような、どうしようもない力の差を突き付けられている気持ちになる。忘れかけていた絶望を思い出す。

歩き始めていた名前が足を止めた。振り返るなと思ったのに、憂い顔と目が合った。

「……何?」

「挙式は親戚一同全員参加だから。遅刻せず、必ず最初から出るようにね」

「ーー分かったよ。イル兄」

望む答えを返した筈なのに、イルミが僅かに眉を上げたように見えた。それも一瞬のことで、直ぐに踵を返される。イルミが名前を促した。並んだ背中は木々に隠され、次第に見えなくなった。





挙式の3日前、廊下を歩いていたキルアは名前の部屋の明かりが消えていることに気が付いた。式が終わるまで部屋は夫婦別々と、キキョウの考えで名前には個室が与えられていた。夕食を終えて就寝までのいつもなら部屋に居る時刻、名前は自室を出てどこかへ行っている。

古い屋敷の為、ぴったりとドアを閉めても床との間に僅かな隙間が出来る。名前の部屋の前を通る度、そこから漏れる明かりをどうしても確認してしまう。その度に安堵感と自己嫌悪にも似た気持ちの両方が、己の中で行ったり来たりする。

(行くとこなんか……決まってる)

耐え難い想像に顔を顰めて、キルアははっとした。イルミは夜通し仕事の筈だ。キリキリした胸の痛みは消えたが、今度は別の不安が押し寄せた。

(……ったく、どこ行ったんだよ)









次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ