SS

□不道徳のすゝめ
1ページ/1ページ


長い廊下のずっと向こうを歩く、すらりとした黒いスーツの後ろ姿。大きく取られた窓からは、正午前の強い陽射しが溢れる程に射し込んでいた。遠ざかる背中が光に飲み込まれ、見えなくなってしまいそうで、名前はその場で声を上げた。

「イルミ先生!」

人影が足を止めた。その間に駆け寄れば、ヒールの踵が硬い床の上に忙しない音で響く。息を切らせて追い付いた名前を、彼は不思議そうに見下ろした。

「何?」

「授業……っ、数学の授業、どうしたんですか?」

「授業?自習にしたよ。今課題配って来た」

「また自習ですか?今月に入って確か5回目ですよ」

「よく覚えてるね。いいんだよ。その方がみんな喜ぶし」

「きちんと授業を進めないと、保護者の方から苦情が出ます」

「出たの?」

「いえ……まだですが」

「じゃあ、いいんじゃない」

背を向けて再び歩き出そうとする彼の前に、今度は行く手を阻むように回り込んだ。脇に抱えられた教科書が目に入る。

授業自体の評判は悪くない。むしろ良いと聞いている。何かの折に名前も見学したことがあったが、淡々としながらも説明は簡潔でとても分かり易かった。

「授業をしない……出来ない訳が何かあるなら、話して下さい」

「別に。面倒なことは、出来るだけしたくないだけ」

「面倒って……」

「試験までに、試験範囲までは終わらせる。無駄にダラダラ時間掛けてやるより、差し迫ってた方が生徒も集中するだろうし」

「そんな、勝手なこと」

「そんなに授業やりたいなら、俺の時間に名前先生の国語やっていいよ」

「私の授業は一時限目に終わっています」

「じゃあ、名前先生が数学やる?」

「出来る筈ないです……!」

「そう、それならやっぱり自習だね」

それじゃ、と横をすり抜けるイルミの腕を思わず名前は掴んでいた。ジャケットの厚みのある生地の上からでも分かる、硬い前腕の感触。

腕に触れただけで、そこから総身が想像出来てしまう。どちらかと言うと不健康そうで、運動の類は嫌いか不得意だろうと思い込んでいた。上下とも着込んだスーツ姿しか見たことがないから、理数系の若い教員にありがちな、ひょろりと薄く痩せたイメージしかなかった。思ったよりずっと筋肉質な身体に、名前は暫し言葉を忘れて黙り込んでしまった。

「しつこいね。あんまりしつこいのは苦手なんだけど」

「っ……けど、問題になったらイルミ先生の立場が――」

言い終える前に、振り払った手でそのまま腕を掴み返され、ぐんと引かれた。その力強さに驚く間もなく、数歩先にある空教室まで引きずられ、強引に中に引っ張り込まれる。

遮光カーテンで閉め切られた薄暗い室内。閉められたドアの手前で、カチリ、と鍵の掛かる冷えた金属音がした。授業中の今は廊下を歩く人もなく、校舎の中は静まり返っている。鍵の音が余韻を残して響く程に、静寂とどこか不徳な空気が部屋を満たしていた。

「な、何するんですか……っ?」

「俺も名前先生も授業ないし、お互い暇だからさ」

「イルミ先生は、暇じゃない筈です」

「まだ言ってるの?」

ゆらりと影が動く。後退りした拍子に、名前の手からクリアファイルが滑り落ちた。イルミの気配が一歩、また一歩と近付く。同じ歩調で下がりながらも、名前は毅然と問い掛けた。

「前に転勤になった先生、保護者からの苦情が原因だって話……知りませんか?」

「ふーん」

整然と並んだ机の間を、追われるように後退していく。手探りで確かめていた机が途切れ、名前は壁際まで追い詰められた。背中には硬い壁の感触、目の前には長身のイルミ。もう逃げ道はない。

伸びてきた手に身構えると、胸にきつく抱きかかえていた教科書類を取り上げられた。近くの机に置く際の、意外にも丁寧な扱いに気が逸れていたのも束の間、イルミが一息に距離を詰めた。

「要するに、俺が居なくなったら寂しいんだね」

「え……っ」

「俺が自習ばっかりしてたら、飛ばされて会えなくなるかも知れないから心配してる……そういうことでしょ?」 

「そんな、ちが……」

冷たい手が頬に触れ、端整な顔が近付けらる。薄闇の中でもこれだけ近付けば、相手の顔ははっきりと見えた。細フレームの眼鏡のレンズ越しに、嫌という程見つめられる。見られているだけで火照ってしまいそうな、妖しく艶っぽい視線で。

「こんな暗い部屋で、二人きりなんだし――」

唇が薄く笑みの形を作り、秘密の話を打ち明けるようにゆっくりと無声を吐き出した。

「いいことしようか」

「いいことって……」

「気持ちいいこと」

タイトスカートの太腿を割って、イルミの膝が侵入してくる。両手首を掴まれ、壁に縫い留められた。否応なしに身体が密着する。

「あ……っだ、だめです……!こんなところで……誰か来たら……」

「大丈夫、鍵掛けたから」

「そういう問題じゃなくて……」

「じゃあ、どういう問題なの?」

「イルミ先生、誰にでもこんなことしてるんですか……?」

「誰にでもって?」

「保健医の先生とか、女子生徒達も……先生のこと、素敵だって言ってたし……」

「へえ、知らなかった。でも、どうでもいいよ」

両手を拘束したまま、覗き込むようにイルミの顔が下りてくる。近すぎる距離に顔を逸らせば、耳許に唇が寄せられた。

「俺が興味あるのは、名前先生だけだから」

吐息を混ぜたような甘く掠れた声に、ぞくりと震えが走る。まとめ髪のせいで、首筋もうなじも酷く無防備だ。触れるか触れないかのところを唇が掠める。温かい吐息が掛かって、決して校内で漏らしてはいけない、禁忌の声が喉の奥からせり上がってくる。

「……っ」

「我慢しなくてもいいのに」

片手が解放されたと思ったら、今度は太腿に添えられた。薄いストッキングの上から円を描くように撫でられると、つるりとした生地を隔ててイルミの手の平の感触が伝わる。

大きくて筋張ったその手は、本来なら黒板に数式を書いているべきだった。それなのに、カーテンを閉め切った空教室で、スカートの中に入り込もうとしている。膝で押し広げ露わにした柔らかい内腿に、微妙な力加減で指を這わせながら。

どこか不健全な色香があると、常々思っていた。「教科書を開いて」と抑揚なく指示する声にすら、胸をざわめかせるような、女性を惑わせ惹き付ける力が彼にはあった。それとも、それこそが不健全な発想なのだろうか。

唇と唇が引き合うように触れそうになった時、入口付近にあるスピーカーからパチパチという微弱な雑音が漏れてきた。

『――イルミ先生、イルミ先生、至急職員室までお戻り下さい』

顔を見合わせた後、イルミは小さく嘆息し、興が削がれたように名前への拘束を緩めた。

「あーあ、いいところだったのに」

「そんなこと言ってる場合じゃないです」

「俺のこと呼んでるっぽいね」

「思いっきり呼び出しですよ……!どうしよう……やっぱり自習が問題視されたのかも……」

「名前」

名前を呼ばれはっとして顔を上げると、落ち着かせるように、頭にぽんと手を置かれた。

「そんな顔しなくても、上手く切り抜けるから大丈夫だよ。それにまだ、その件だって決まった訳じゃないし」

「そうですけど……」

「転勤なんて冗談じゃないしね。せっかく名前先生と、もっと親しくなれそうなのに」

「親しく……」

「そう、もっと親密で深い、大人の付き合い」

瞳に妖しさが戻った気がした。イルミの手が伸びて、親指が唇をそっと撫でる。

「それじゃ、続きはまた今度ここでね」

「イルミ先生」

向けられた背中に声を掛ければ、イルミが訝しげに振り返った。

「何?」

「……居なくならないで下さいね」

それが意外な言葉だったのか、数秒の沈黙の後、眼鏡の奥の瞳がゆっくりと細められた。ぐっと手を引かれ、短く唇が触れ合う。一瞬の掠め取るようなキスだった。口元だけで彼はふっと微かに笑う。

「これでもう、共犯だね」




イルミが出て行った後も、名前は暫く呆然としていた。一人になっても室内は相変わらず静かで、何も映さないテレビも整然と並んだ机と椅子も、薄暗い部屋ごと全部がどこか秘密めいていた。

乱れた髪とスカートの裾を整え、落としたクリアファイルを拾った。鼓動はまだ少し速い。

ドアを開けて周囲を窺う。それから密やかに、背徳の残り香が漂う部屋を後にした。

唇が触れなくても共犯だった。そのことを多分、彼は知らない。












2014/12/10

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ