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□不道徳のすゝめ
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長い廊下のずっと向こうを歩く、すらりとした黒いスーツの後ろ姿。大きく取られた窓からは、正午前の強い陽射しが溢れる程に射し込んでいた。遠ざかる背中が光に飲み込まれ、見えなくなってしまいそうで、名前はその場で声を上げた。
「イルミ先生!」
人影が足を止めた。その間に駆け寄れば、ヒールの踵が硬い床の上に忙しない音で響く。息を切らせて追い付いた名前を、彼は不思議そうに見下ろした。
「何?」
「授業……っ、数学の授業、どうしたんですか?」
「授業?自習にしたよ。今課題配って来た」
「また自習ですか?今月に入って確か5回目ですよ」
「よく覚えてるね。いいんだよ。その方がみんな喜ぶし」
「きちんと授業を進めないと、保護者の方から苦情が出ます」
「出たの?」
「いえ……まだですが」
「じゃあ、いいんじゃない」
背を向けて再び歩き出そうとする彼の前に、今度は行く手を阻むように回り込んだ。脇に抱えられた教科書が目に入る。
授業自体の評判は悪くない。むしろ良いと聞いている。何かの折に名前も見学したことがあったが、淡々としながらも説明は簡潔でとても分かり易かった。
「授業をしない……出来ない訳が何かあるなら、話して下さい」
「別に。面倒なことは、出来るだけしたくないだけ」
「面倒って……」
「試験までに、試験範囲までは終わらせる。無駄にダラダラ時間掛けてやるより、差し迫ってた方が生徒も集中するだろうし」
「そんな、勝手なこと」
「そんなに授業やりたいなら、俺の時間に名前先生の国語やっていいよ」
「私の授業は一時限目に終わっています」
「じゃあ、名前先生が数学やる?」
「出来る筈ないです……!」
「そう、それならやっぱり自習だね」
それじゃ、と横をすり抜けるイルミの腕を思わず名前は掴んでいた。ジャケットの厚みのある生地の上からでも分かる、硬い前腕の感触。
腕に触れただけで、そこから総身が想像出来てしまう。どちらかと言うと不健康そうで、運動の類は嫌いか不得意だろうと思い込んでいた。上下とも着込んだスーツ姿しか見たことがないから、理数系の若い教員にありがちな、ひょろりと薄く痩せたイメージしかなかった。思ったよりずっと筋肉質な身体に、名前は暫し言葉を忘れて黙り込んでしまった。
「しつこいね。あんまりしつこいのは苦手なんだけど」
「っ……けど、問題になったらイルミ先生の立場が――」
言い終える前に、振り払った手でそのまま腕を掴み返され、ぐんと引かれた。その力強さに驚く間もなく、数歩先にある空教室まで引きずられ、強引に中に引っ張り込まれる。
遮光カーテンで閉め切られた薄暗い室内。閉められたドアの手前で、カチリ、と鍵の掛かる冷えた金属音がした。授業中の今は廊下を歩く人もなく、校舎の中は静まり返っている。鍵の音が余韻を残して響く程に、静寂とどこか不徳な空気が部屋を満たしていた。
「な、何するんですか……っ?」
「俺も名前先生も授業ないし、お互い暇だからさ」
「イルミ先生は、暇じゃない筈です」
「まだ言ってるの?」
ゆらりと影が動く。後退りした拍子に、名前の手からクリアファイルが滑り落ちた。イルミの気配が一歩、また一歩と近付く。同じ歩調で下がりながらも、名前は毅然と問い掛けた。
「前に転勤になった先生、保護者からの苦情が原因だって話……知りませんか?」
「ふーん」
整然と並んだ机の間を、追われるように後退していく。手探りで確かめていた机が途切れ、名前は壁際まで追い詰められた。背中には硬い壁の感触、目の前には長身のイルミ。もう逃げ道はない。
伸びてきた手に身構えると、胸にきつく抱きかかえていた教科書類を取り上げられた。近くの机に置く際の、意外にも丁寧な扱いに気が逸れていたのも束の間、イルミが一息に距離を詰めた。
「要するに、俺が居なくなったら寂しいんだね」
「え……っ」
「俺が自習ばっかりしてたら、飛ばされて会えなくなるかも知れないから心配してる……そういうことでしょ?」
「そんな、ちが……」
冷たい手が頬に触れ、端整な顔が近付けらる。薄闇の中でもこれだけ近付けば、相手の顔ははっきりと見えた。細フレームの眼鏡のレンズ越しに、嫌という程見つめられる。見られているだけで火照ってしまいそうな、妖しく艶っぽい視線で。
「こんな暗い部屋で、二人きりなんだし――」
唇が薄く笑みの形を作り、秘密の話を打ち明けるようにゆっくりと無声を吐き出した。
「いいことしようか」
「いいことって……」
「気持ちいいこと」
タイトスカートの太腿を割って、イルミの膝が侵入してくる。両手首を掴まれ、壁に縫い留められた。否応なしに身体が密着する。
「あ……っだ、だめです……!こんなところで……誰か来たら……」
「大丈夫、鍵掛けたから」
「そういう問題じゃなくて……」
「じゃあ、どういう問題なの?」
「イルミ先生、誰にでもこんなことしてるんですか……?」
「誰にでもって?」
「保健医の先生とか、女子生徒達も……先生のこと、素敵だって言ってたし……」
「へえ、知らなかった。でも、どうでもいいよ」
両手を拘束したまま、覗き込むようにイルミの顔が下りてくる。近すぎる距離に顔を逸らせば、耳許に唇が寄せられた。
「俺が興味あるのは、名前先生だけだから」
吐息を混ぜたような甘く掠れた声に、ぞくりと震えが走る。まとめ髪のせいで、首筋もうなじも酷く無防備だ。触れるか触れないかのところを唇が掠める。温かい吐息が掛かって、決して校内で漏らしてはいけない、禁忌の声が喉の奥からせり上がってくる。
「……っ」
「我慢しなくてもいいのに」
片手が解放されたと思ったら、今度は太腿に添えられた。薄いストッキングの上から円を描くように撫でられると、つるりとした生地を隔ててイルミの手の平の感触が伝わる。
大きくて筋張ったその手は、本来なら黒板に数式を書いているべきだった。それなのに、カーテンを閉め切った空教室で、スカートの中に入り込もうとしている。膝で押し広げ露わにした柔らかい内腿に、微妙な力加減で指を這わせながら。
どこか不健全な色香があると、常々思っていた。「教科書を開いて」と抑揚なく指示する声にすら、胸をざわめかせるような、女性を惑わせ惹き付ける力が彼にはあった。それとも、それこそが不健全な発想なのだろうか。
唇と唇が引き合うように触れそうになった時、入口付近にあるスピーカーからパチパチという微弱な雑音が漏れてきた。
『――イルミ先生、イルミ先生、至急職員室までお戻り下さい』
顔を見合わせた後、イルミは小さく嘆息し、興が削がれたように名前への拘束を緩めた。
「あーあ、いいところだったのに」
「そんなこと言ってる場合じゃないです」
「俺のこと呼んでるっぽいね」
「思いっきり呼び出しですよ……!どうしよう……やっぱり自習が問題視されたのかも……」
「名前」
名前を呼ばれはっとして顔を上げると、落ち着かせるように、頭にぽんと手を置かれた。
「そんな顔しなくても、上手く切り抜けるから大丈夫だよ。それにまだ、その件だって決まった訳じゃないし」
「そうですけど……」
「転勤なんて冗談じゃないしね。せっかく名前先生と、もっと親しくなれそうなのに」
「親しく……」
「そう、もっと親密で深い、大人の付き合い」
瞳に妖しさが戻った気がした。イルミの手が伸びて、親指が唇をそっと撫でる。
「それじゃ、続きはまた今度ここでね」
「イルミ先生」
向けられた背中に声を掛ければ、イルミが訝しげに振り返った。
「何?」
「……居なくならないで下さいね」
それが意外な言葉だったのか、数秒の沈黙の後、眼鏡の奥の瞳がゆっくりと細められた。ぐっと手を引かれ、短く唇が触れ合う。一瞬の掠め取るようなキスだった。口元だけで彼はふっと微かに笑う。
「これでもう、共犯だね」
イルミが出て行った後も、名前は暫く呆然としていた。一人になっても室内は相変わらず静かで、何も映さないテレビも整然と並んだ机と椅子も、薄暗い部屋ごと全部がどこか秘密めいていた。
乱れた髪とスカートの裾を整え、落としたクリアファイルを拾った。鼓動はまだ少し速い。
ドアを開けて周囲を窺う。それから密やかに、背徳の残り香が漂う部屋を後にした。
唇が触れなくても共犯だった。そのことを多分、彼は知らない。
不道徳のすゝめ
2014/12/10