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□ラッキーガールの陥落
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途中幾つかの扉があったが、その向こうに待ち構えていた敵をイルミが一人で一掃してしまった。流れるように無駄のない彼の動きに、名前は思わず目を奪われる。揺るぎない自信は日頃の鍛錬によるものなのだろう。軽口ばかり叩いているようで、人知れず血の滲むような努力をしてきたのだろうと思うと、何とも言えない気持ちになった。
「……イルミさん、さっきの話ですけど、殺し屋って危なくないんですか?」
「当然危ないだろうね。いつ死ぬか分からないから、生命保険には入れないんだよね。残念ながら」
「なりたくてなったんですか?」
「考えたこともないな。家族がみんなそうだから特に疑問も持たなかったし、気付いたらなってた」
「気付いたらって……でも、たくさん訓練したんですよね?痛いこととか苦しいこと、いっぱい我慢してきたんですよね?」
「まあ否定はしないけど……俺にはそれしかないから」
「辛くないんですか?」
「辛いって言ったら、キスでもしくれるの?」
今までのように、拒絶の言葉を口にしようと思ったのに、名前は直ぐに返答することが出来なかった。長い黒髪に隠れたイルミの横顔がほんの一瞬陰ったように見えたからだ。蝋燭の炎だけが頼りの薄暗い建物内、確かなものではないけれど。
「……ください」
「ん?」
「少し屈んでください」
「こう?」
イルミが腰を屈め、漸く届くようになった頭部に名前は手を伸ばして触れた。髪の流れに沿って手の平を滑らせる。束ねた絹の糸みたいにつるつるした感触に何度も、何度も触れる。
「何……してるの?」
「辛いなら、撫で撫でしてあげます」
「してくれなくていいよ。子供じゃないんだから」
「イルミさん、髪きれいですね」
「そう?」
「はい、すごく気持ちいいです」
「別に嬉しくないんだけど」
口ではそう言ったが、彼は鬱陶しそうにするでもなく、大人しく髪を撫でられていた。こんなことくらいで何が変わるとも思っていないけれど、イルミを見ていたら無性にそうしたくなったのだ。
彼の強さは天性のものだけではない気がした。幼少期から肉体と共に精神を鍛えられたのだろう。だから弱音なんか吐かない。辛いことを辛いと言えない。きっと、寂しい時も。
初めから充分艶やかな髪。特に乱れたところなどなかった。必要もなく撫で整えて、名前は静かにイルミから離れた。
「それしかないなんて……言わないで下さい」
「でも、実際そうなんだよ。俺は殺しをする為に生まれたし、殺しが出来ない俺に価値はないんだから」
「そんな……違います……!そんなことありません」
「どうして簡単に違うなんて言えるの?何も知らないのに」
「確かに知らないですけど、でもっ、イルミさん自身に価値がないなんて、そんなこと誰が決めたんですか?そんなこと……っ」
「何ムキになってるの?」
「あ……すみません……」
「もうこの話はいいよ。とりあえず行こうか。ゴールまでどのくらいあるか分からないから、歩いておいた方がいい」
顔を背けた彼が小さく、「君には分からないことだよ」と言った。
思い過ごしかも知れないけれど、一時間前に比べて無言の時間が増えたように感じた。少なくとも名前の方は、どうでもいい話題を口にする気分ではなくなっていた。前を歩くイルミの背中が先程とは違って見える。凛とした姿勢は変わらないのに。
「あーそろそろ出口かな?」
名前の心情とは裏腹に、前方から間延びした声が聞こえた。数百メートル程先に小さな明かりが見える。
「ここからは一人で行きなよ。大丈夫、敵の気配は感じないから」
「イルミさんは……?」
「俺は変装しなきゃいけないから、後から行くよ」
「それなら待ってますから、一緒に……」
「ああ、名前は俺の見た目が嫌いで、あっちの姿の方がいいんだったね」
「そういうことじゃありません……」
「とにかく、待たれてると気が散るし、先に行って」
イルミはそう言って壁に背をもたれ、襟元から鋲を一本抜いた。左手で根元を持つと、右手の指先を先端に向かってつうっと滑らせる。鈍色に光る鋭い金属。最初から、初めてそれを手にした時から、自身を貫くことに何の躊躇いもなかった訳ではないだろう。
「……わかりました。あの……ここまでありがとうございました」
「いや、俺は普通に歩いてただけだから。この後の試験、がんばってね」
「あ……はい」
軽く頭を下げ、名前はちらりとイルミを見た。揺らめく蝋燭の灯りに照らされた彼の表情からは、何も読み取れなかった。