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□空蝉のマリアージュ
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行ってくるから、と短い一言を残し、いつものようにイルミは部屋を出て行った。大きな窓から光が入り込み、広くがらんとした部屋を隅々まで包むような白い朝だった。眩しい程の朝陽が暖かさでなく、冷え冷えとした感覚を名前に与えるのは、いつも彼が背を向けて出て行くのが朝だからなのかも知れない。

部屋から完全にイルミの気配が消えると、名前は静かにソファーへ腰を下ろした。テーブルには揃いのティーカップが二つ。一つにはイルミが飲み残して行った紅茶がひと口残っていた。彼は飲み物を最後まで飲まない事が多い。

形式上夫婦になってから数ヶ月が経つが、イルミの事で知っていると言えるのはそれくらいだった。余りに淡々として余りに無関心な彼と、夫婦として円満にやっていこうとしたら、何時の間にか名前にも余計な事を口にしないという術が身に付いていた。

どういう仕事でどこに行き帰りは何時頃になるのか、彼は告げた事がないし名前も聞かなかった。深夜帰宅した彼から漂う微かな血の匂いが、今日も確実に仕事を遂げてきたのだと思わせる唯一のものだった。

イルミが話さないのは何も仕事の話だからではない。日頃から彼とは必要な会話以外は交わさなかった。家事全般は使用人がしてくれるし、家庭に発生する諸々の所用も執事がこなしてくれるので、夫婦で話し合わなければならない何事もなかったのだ。

だからイルミとは上手くやっているとも言えた。些細な喧嘩も感情をぶつけ合う事も、そもそも本音で話した事すらないのだから。




ノックの音があり義母であるキキョウが姿を見せる。イルミとは違った意味で、名前はまだここの家族には慣れないでいた。

「名前さん、イルミは出掛けたのかしら?」

「はい、少し前に」

「食堂には来なかったようだけど、何か食べて行った?」

「いえ、紅茶だけでいいと」

「そう」

キキョウは何も言わなかったけれど、訝るような視線で名前を見た。朝食の件に限らず、日常生活全てにおいて妻としての務めを果たしているのか疑われている気分になる。

否、そう思うのは単なる被害妄想かも知れない。自分に思い当たる節があるから、キキョウの視線を居心地悪く感じてしまうのだ。

「お昼過ぎにお客様が見えるから、名前さんも一緒にお出迎えしてちょうだいね。イルミの妻として皆さんに紹介しなくてはね」

「はい、分かりました」

キキョウが出て行きドアが閉まると、名前は鏡台の前に座って自分の姿を映し見た。鏡の奥から見つめ返してくるのは、朗らかさの欠片もない寂しげな顔。

だからイルミは愛してくれないのだろうか。或いは、愛されないからこういう顔しか出来ないのだろうか。

どちらにしても、客人の前で暗い表情をしている訳にはいかなかった。名前は白粉を手に取ってブラシで顔に叩いた。口紅を引いて口角を上げてみる。外見上はそれなりに繕えた気がした。




庭で開かれた茶会には沢山の人が訪れた。名前の不安に反して、客人は皆イルミの妻となった名前を持て囃した。この上ない幸福を手にしたと賞賛した。実際イルミは暗殺者として秀逸で男としても魅力的なのだと思う。初めて彼を見た時に胸が震えたのは、彼の凛とした美しさに魅せられたからだ。言葉を交わし飄々とした態度に戸惑いながらも、確かに惹かれていた。そうでなければ、どれだけ一族にとって意味のある婚姻でも踏み切れなかった。気持ちが伴った結婚の筈だった。







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