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□シュルレアリスムアバンチュール
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最寄り駅から家までは、僅か数分の道程だ。コンビニエンスストアと最近オープンしたばかりの美容室、その隣に小さな洋菓子店がある。さらに行くと整備された小川と遊歩道があり、夕刻には街灯に燈る山吹色の灯りが等間隔に辺りを照らしていた。
日によって表情を変えるこの道が、名前はとても好きだった。燃えるように赤い夕暮れや濃淡を描く夕闇の薄紫色の空、早朝の澄んだ空気も雨上がりの湿った草木の匂いも。毎日通っている筈なのに、見慣れた遊歩道は時折名前を知らない世界に連れて行ってくれる。
立ち止まって携帯電話のカメラを向け、何度かシャッターを切る。住宅街の隙間に広がる大きくも小さくもない空とそれを分け入るように伸びる真っ直ぐな道は、誰でもそれなりの写真が撮れる初心者に優しい被写体だった。
とは言っても、出来栄えの悪さに落胆することもあって、余計な光が入ったり、最悪自分の指が写り込んでしまうなんてこともある。選別して気に入ったものを残し、専用のフォルダに移しておく。
本格的な写真を撮る立派なカメラも技術もないけれど、日々変わる景色を小さなスマートフォンの画面に収めるのは帰宅途中の名前の密かな楽しみになっていた。
この日は会社の催しがあり、いつもより帰宅が遅かった。 何とか終電に間に合ったので、駅から徒歩で家に向かう。閉店した店の前を通り、住宅街を抜ける。周りは車通りも殆どなく静かだった。白い息を吐きながら、名前は小路を折れ遊歩道へと入って行く。
藍色の空を背負った小道を歩くと、自分のヒールの音が調子外れの打楽器のように辺りに木霊した。冷えた外気で酔いはすっかり冷めていた。寒さでちりちりと震える星を見上げ、歩測をやや速める。星空が上手く撮れないのは実証済みで、コートのポケットから出した携帯で時間だけを確かめた。
不意に視界が陰る。手元から顔を上げると目の前に男が立っていた。
恐怖というより、とにかく名前は吃驚した。遮る物のない見通しのいい道で、一秒前まで人影など全くなかったからだ。まさに降って湧いたかのようなその人物は、名前の驚きを気に留める様子もなく、固まったままの名前の手から携帯電話を取り上げた。
「ちょっと借りるよ」
「え……っ」
「えーと、どこかな」
呟きと共に自分の携帯電話が操作される。突然の出来事に名前の思考は凍結状態だった。状況は分かっている筈なのに、現実として飲み込めていない。名前はまともに声も出せず、ただ唖然と男の行動を見つめていた。
バックライトの明かりが反射して、男の顔がおぼろに映し出される。長い髪、特徴的な瞳、中性的で作り物のように整った顔立ち。一度見たら、そう忘れないだろうと思える程の。見知らぬ人だ。こんなことをされる覚えはない筈の相手。そう思ったら、弾かれたように声が出た。
「あの……っ、何するんですか……!勝手に……っ」
「まあ、ちょっと不都合があってさ」
「不都合って……それ、わたしの携帯です……!」
「うん、知ってる」
男は涼しい顔でそう答え、ページを送るように指先で画面を払った。あまりの身長差で、彼がどの画面で何をしているのか名前には把握出来ない。咄嗟に腕に飛びつけば、驚いてバランスを崩したのか男の身体が少し傾き、僅かに画面が視界に入った。
「写真……?!」
「そう、君がカメラで撮ったやつ」
「何で、写真なんか……」
その続きを口にしようとして、思わず名前は絶句した。男の指先がごみ箱のアイコンに触れ、写真が削除されたからだ。
「これも……あ、これもだ」
「ちょっと……!何するんですか!?」
「だから、都合悪いんだって」
「早く返し……あ、ダメ……っ!」
掴んだままの腕を全力で揺さぶると、流石の男も手元が定まらなくなる。名前を引き離すように体勢を変えながら、彼は不機嫌そうに顔を歪めた。
「邪魔しないでよ。すごいやりにくいんだけど」
「だって、写真……っ気に入ってるのに」
「大した写真じゃないよ。ブレてるのも多いし、アングルも悪い」
「ひどい……!」
数分間同じようなやり取りが続けられたのち、はいと手の中に携帯を返された。消沈したまま確認すれば、案の定写真が複数枚なくなっている。名前は精一杯の恨みを込めて、頭上の男を思いきり睨み付けた。
「……どうして、こんなことするんですか?人の画像を勝手に削除するなんて、いくらなんでもひどすぎます……!」
「んーまずい物が写り込んでたからね。ちょっとした親切だよ」
「親切って……あなたに不都合なものが写ってたなら、あなたがまずいだけで、わたしは別に……っ」
「俺じゃない。君にとってだよ」
「え……?」
「被写体はよく見た方がいいよ。リスクを承知で、逆に利用するつもりで撮ったーーって言うなら話は別だけど。そんな度胸があるようにも見えないし」
「どういう意味ですか……?」
「そんな黒い写真持ってたら、狙われるってこと」
詳しく説明すると消した意味がなくなると言いながらも、それが裏世界の犯罪に関する何かだと彼は教えてくれた。ある種の組織にとって脅威となる為、画像として所持しているのは命知らずの愚行ということらしい。
自覚がないだけに、何かの理由で自分のデータフォルダから外に出す可能性もないとは言い切れなかった。不特定多数の目に触れれば、彼の言う恐ろしい事態に巻き込まれていたかも知れない。
名前はもう一度男を見た。警戒心や敵意が幾分か薄れた今、改めて冷静に客観的に観察する。掴み所のない不思議な雰囲気はあるけれど、超然としていて仕草にはどこか品があった。危険な人物にはあまり思えない。目が合うと彼は不思議そうに首を傾けた。
(悪い人ではないのかも……)
写り込んだものが何か、知らせずに消去してくれたのは彼の配慮だ。やり方が強引で少々横暴ではあったけれど。
「すみません……わからなかったとはいえ、あんな態度……」
「本当だよ。寒い中わざわざ来てあげたのに、罵られて、おまけに引っ掻かれるなんてね」
男が徐にコートの袖を捲ると、意外に筋肉質な前腕が露わになる。その手首の少し上に引っ掻いたような傷があった。街灯の明かりが届くぎりぎりの範囲、決して明るくないこの場所でもはっきりと確認出来る。血が滲んでいるのか、薄っすらと赤みを帯びているようにも見えた。
「さっき飛び付いた時に……?ご、ごめんなさい!痛みます?痛みますよね?血も出てますか?!」
「まあ、大げさに言ったけど、かすり傷だよ。放っておいても直ぐ治る」
「でも、わたし……どうしたら……放っておくなんて出来ません……っ」
「そんなに言うなら、じゃあ手当てして貰おうかな」
「手当て……」
「そう、君の家で。すぐそこだよね」
促すように男が帰り道を振り返る。長い黒髪が揺れて冷気をはらんだ風が、立ち竦んだままの名前の鼻先を吹き抜けた。
忘れていた寒さを思い出す。立ち話をするには、今夜はあまりにも寒い。