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□春霞の君
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ぼんやりとした月の夜だった。たなびく雲に隠されるでもなく、月影は酷く曖昧だ。遠くの景色は白っぽい靄に包まれ、薄く紗を掛けたようにおぼろげだった。
似たような情景を過去にも目にした気がするが、それがいつだったかは思い出せそうもなかった。全てがあやふやな夢裡のようで、もどかしく、どこか懐かしくもある。
昼も夜もじっくりと空を見ることなどなかった。仕事に必要な情報も解決すべき問題の答えも、そこにはないからだ。
(……くだらない)
存外抒情的な己の思考を自嘲し、溜息ついでにイルミはもう一度頭上を仰ぐ。
滲む光の輪郭が闇と溶け合って、泣いているようだと思った。
「今晩は」
声に視線を上げると、目の前で栗色の巻き毛が揺れていた。その間から微笑む名前の顔が見える。無言のまま黙って見返せば、彼女は隣にすとんと腰を下ろした。ロングブーツを履いた両脚を地上35階の宙に浮かせ、片方ずつ交互にゆらゆらと動かす。
イルミは再び向かいのビルに視線を戻すと、該当の部屋から目を離さずに言った。
「相変わらず緊張感ないね」
「それはイルミもね」
「俺はそれなりにあるつもりだけど」
「本当?さっき違うこと考えてたでしょ」
「……後から来た奴に言われたくない。たとえそうだったとしても、気は抜いてないし」
憮然として言い返すと、ごめんねと名前が笑う。
「ターゲットは動きなし?」
「まあ、今のところは」
都心のビルの屋上、イルミは一段高くなったコンクリートの縁に座して、向かいの建物にある一室を監視していた。今日で3日目になるが、未だ停滞したまま。中に居る人物に別段変わった様子はなく、この部屋を訪ねて来る筈のターゲットは現れない。
双眼鏡を使って覗く名前の横顔を盗み見る。イルミがここに居る理由は、彼女とは別のものだ。自分は依頼人からの要請で、ターゲットを暗殺する為。彼女は世界に一つしかないと言われている、美術品を手に入れる為。動き出すタイミングが同じ為に、こうして隣り合って張り込みをしている。
「それにしてもさ、そういうのって便乗だよね。俺が殺る頃を見計らって、盗み出すんでしょ?はっきり言って邪魔なんだけど」
「でも、先に動いたらイルミ怒るでしょ?ターゲットがたまたま被っちゃったんだから、譲り合わなきゃ。それに、この待機はわたしの意思じゃなくて団長命令だし」
彼女が口にした団長という言い回しに、ぴくりと僅かにイルミの眉が上がる。何度聞いても違和感は消えなくて、聞く度に苛立ちを覚えるそれ。名前が旅団に入ったのは今から半年程前で、殆ど話が固まってから聞かされた。相談ではなく、事後報告のようなものだった。
親同士の繋がりからきている昔からの知り合いで、幼少期は一緒に訓練などをしたこともあったが、今となっては何かあれば連絡を取る程度の間柄だった。彼女は彼女で暗殺を生業としていたし、仕事のパートナーとして手を組んでいた訳でもない。事前報告が義務と言えないのは、イルミも頭では分かっているつもりだった。
ただ、あっさりと、何の迷いも躊躇いもなく、別の道を行くことを選んだ名前に対し、気に入らないという気持ちが拭えなかった。以来ずっと。すっかり旅団員となった今でも。
「団長がね、今回初めて単独で大きな仕事を任せてくれたの。期待されてるのかな、わたし」
「失敗すればいいよ」
「何それ、ひどい」
「殺しの時に手元が狂って、美術品がぐちゃぐちゃになるかもね」
「そんなことしないでしょ……イルミは」
不意に悲しそうな顔を向けられ、気のせいか呼吸が重くなった気がした。それから唐突に思い出す。頭上の泪月に重なったのは、幼い頃の彼女の泣き顔だ。鬱陶しくて、どうしていいか分からなくて、大嫌いだった。
何時からか名前は泣かなくなった。我慢することを覚えたのか、強くなったのか。それとも単に、自分に弱味を見せなくなっただけなのか。いずれにしろ、煩わしさから解放された。
「さあね」
イルミは目を逸らした。仲間やクロロの期待に応えることがそんなに大事なのかと、面白くない気分になる。ならば本当に失敗して絶望すればいい。思い知ればいい。
遠くでクラクションの音が聴こえる。何度も執拗に鳴っている。焦燥を助長するような不快な音だ。ぽつりと隣で名前が呟いた。
「イルミは完璧だもの」
「何それ」
「……あ、ちょっと待ってね」
ポケットの中で携帯が震えたのか、名前は画面を確認すると立ち上がって場所を離れた。屋上の中央まで行くと、小声で何か話している。相手は多分蜘蛛の誰かだと思った。一分もしない内に、名前は少し困惑した顔付きで戻って来た。
「わたし……行かなきゃいけない」
「美術品は?」
「もうここにはないみたい。他の現場に向かうから……だから行くね」
イルミは何も答えなかった。向かいのビルに視線をやったまま黙っていると、背中の後ろで名前がごめんねと言った。
「何が?」
「ううん……何となく」
「意味もなく謝られると、腹立つんだけど」
「そうだよね。じゃあ……またね」
ふわりと風が揺れて気配が薄れる。振り向いた時にはもう名前の姿はなくて、視線の先には錆びた鉄の扉が沈黙していた。
何を今さらと内心で毒づく。別の道を選んだのは彼女なのだ。
何を今さら。