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□あいしてる、という空耳
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恋人同士ですらなかった。ずっと想い続けてきたけれど、結局叶わなかった。だから、最後の賭けだった。
「結婚するの」
指先でスティックシュガーを弄びながら、名前は小さくそう言った。ホテルのラウンジは酷く静かで、呼吸の音さえも聞こえてしまいそうだ。他に客は居なかった。ビロードのソファーに深く沈み込んでいたイルミが、クッションから僅かに背中を浮かせた。
淡い期待を抱いて目線を上げる。そこには、いつもの無感動な瞳が待ち受けていた。体勢を変えたのはテーブルの上のティーカップに手を伸ばしただけの事。
「そう、相手は?」
「父の取引先の人。優しくてしっかりしてるし、ご両親もとてもよくしてくれるわ」
「ふーん」
「おめでとうって、言ってくれないの?」
本当に欲しかったのは、別の言葉だ。互いに誰よりも関心があった癖に、興味のないふりをしてきた。イルミのそれが自分と同じであったかは知らないが、すげない態度の裏には執着があった筈だ。それが分からない程、彼を理解していないとは思わない。
「式は挙げるの?」
質問には答えずに、イルミは別の事を問い返した。紅茶を口元へ運ぶ暗殺者らしからぬ綺麗な手。その手が偶然触れただけで、切ない程に胸が高鳴ったのを思い出す。
「……うん」
「いつ?」
「来月の第二土曜日だけど、来てくれるの……?」
「行かないよ。行くわけないだろ。それとも、本気で俺にそいつとの仲を祝福して欲しい?」
不機嫌そうに眉を顰め、イルミは脚を組み替えて身体を名前から背けた。彼はいつだってそうだ。告白された時も初めて恋人が出来た時も、批判めいた台詞を吐く割に欲しい言葉の欠片すらくれなかった。気に入らないという態度は、少しも隠そうとしないのに。
だから吹っ切れないのだ。心の中からイルミが消えてくれない。他の男に嫁ごうとしている今でも。
「……祝福して欲しいよ。わたしはこれから、幸せになるんだから」
言い聞かせるように呟く名前に、イルミは髪をかき上げる腕の下から冷めた目線をくれた。馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに、再び背もたれへ寄りかかる。テーブルを挟んだたけの距離が、果てしなく遠退いていくような感覚がした。
「招待状、送るね」
「行かないよ。絶対行かない」
「特注したウェディングドレス、すごく綺麗なのよ」
「全然興味ないね」
「わたし結婚するの。わたしを愛してくれる人と。イルミは嬉しくない?」
「……ああ嬉しいよ。こうやって、仕事中に呼び出されることもなくなるだろうしね」
それに、と言ってイルミは脇に置いた上着を手に取る。
「俺も、なんか疲れたし」
長く腹の探り合いをしてきた。イルミの嫉妬を煽る度に、傷心と引き換えの安堵感を得た。住む世界が違うとか足手まといになるとか、最初はそういう境遇に阻まれていた筈だ。けれども今は、積み重ねた愚かな言動による溝の方が遥かに深くなってしまった。底知れぬ真っ黒な感情をどろどろと湛えている。
嫉妬から生まれるのはマイナスの感情でしかない。彼の一言でそれがよく分かった。
「それじゃあ、仕事に戻るから」
イルミが背を向けると、触れる事のなかった艶やかな黒髪が揺れる。ロビーを抜けて玄関を出て行くまで、名前はその後ろ姿をずっと目で追っていた。
これがイルミの答えだというなら、きっと何かが間違っていたのだろう。けれども間違いに気付いたところで、既に手遅れなのだ。もうそんなところまで来てしまった。
(さよなら、イルミ……)
流れた涙がどういう涙なのか、名前自身分からなかった。両手で視界を覆って、自らの闇を何処までも沈んでゆく。せめて嘘でも祝って欲しかった。それならそれで、別の涙を流すのかもしれないけれど。