第二楽章〜冥府業務日誌〜
□RESISTANCE
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砂塵を巻き上げ遥か地平線を霞ませる晩秋の風が、青年の銀の長い髪を吹き乱す。
「やはり、往くのか?」
青年──エレフセウスは頷いた。
「神々を忘れ去り、これよりヒトは繰り返す争いの歴史を紡いでゆくだろう。
その切っ掛けを紡いだのはお前かもしれないが、それはあくまで一端に過ぎぬ。」
冥府の王、タナトスは慈しむようにエレフセウスを見つめ、語りかける。
「お前は既に我の眷族。生者のことは生者に任せて、冥府で好きに暮らして良いのだぞ?」
「ありがとう、タナトス。」
エレフセウスは、彼に笑みを返した。
「貴柱が、破滅を紡ぐ運命に在った私を、気に掛けてくれることには感謝している。──いや、それから解き放ってくれた、皆全てに。」
一瞬、紫の双眸に疾った辛そうなヒカリを、タナトスのすぐ後ろにいた“雷神”は、見逃さなかった。長身の体躯の右半分をほぼ完全に覆うようにして纏っている、朱のマント。その下の利き腕は──今は無い。
「此れのことなら、気にするな。800年もすれば癒えると聞いている──神の身というのは、便利だ。」
その快活な笑みは、ヒトだった頃の、かつてアルカディアと呼ばれた地の民に慕われたそれと、少しも変わっていない。
「雷神よ。言っておくが、考えようによっては、責め苦だぞ。ヒトならば我が“救い”を受けることで、その腕の痛みからも解放されるが、神にはそれは赦されぬのだからな。」
「レオンティウスを見損なうな、冥府の王。私の伴侶は、そんな弱い心の男ではない。」
“死”そのものたる神を、畏れるでも蔑むでもなく黒い瞳でまっすぐ見つめ、そう言い放ったその女神にタナトスは苦笑する。
「それは失敬した、《戦女神の器(パラスアテネ)》アレクサンドラよ。」
「でも、冥王様や義姉様の言う通りだわ、エレフ。」
エレフセウスと対を成す、銀の髪と菫の瞳の女神が穏やかに意見する。
「レオン兄様は、エレフに責めを負わせる為に、《獣》と戦ったんじゃない。」
「そうとも、義弟よ。《獣》と戦い傷を負うは、この男が覚悟の上でしたこと。罪滅ぼしなどと考えるのは、レオンティウスへの冒涜でしかないぞ。」
「罪滅ぼし──では無いと言えば、嘘になる。けれど──」
この女性達に、建前や方便は通用しないだろう。だからエレフセウスは、正直に胸の内を伝えようとした。
「──それ以上に、此処で立ち止まることはしたくないんだ。
《獣》が“もう一人の私”である限り、どんなに永い戦いになろうとも、『獣がもたらす破滅』というこの世界の運命の糸から、抜け出す術を見い出したい。」
「《獣》も救うつもりなのね?エレフ。」
アルテミシアが微笑んだ。
「冥王が救おうとした者なら、今度は私が救う。私は、《冥王の器》だから。」
エレフセウスが頷く。
「抗う事を、未だ諦めていないのだな。」
レオンティウスは、そう理解した。
「貴方も、私も、誰一人ミラから逃れるすべは無い、としても?」
それまで黙したままたたずんでいた、黒髪に紅い瞳の少女神が、ふいに問い掛けた。
「──ミラの糸から逃れることが叶わないというのは、クロニカの言う通りだと思う。
だけど、それは抗うことが赦されないという意味ではなく──その逆なんじゃないかな。」
彼女の問いにエレフセウスが、応える。
「逆、とは?」
「赦さないのではなく、ミラは全ての仔の、あらゆる選択をすべて受け入れ、必ずそれに応じた糸を紡ぐ、だからこそ逃れられない。
──そういうことなんじゃないだろうか。
もしそうなら、抗った末に我等を絡めとる“別の運命”は、破滅を止める未来かもしれない。」
「!!………エレフ、すごい。」
アルテミシアが、心底感動という表情で、双子の兄を見た。
「驚いたな。」
アレクサンドラが、闘いで刃を交えた相手の実力を認めたときに似た笑みを浮かべた。
「面白い解釈ね。」
クロニカが、口許をほころばせる。
「成程、エレフらしいな。」
レオンティウスが、破顔した。
そして、タナトスがゆっくりと口を開く。
「エレフセウスの、抗い続け諦めぬ『剣』の心。アルテミシアの、受け入れ揺るがぬ『盾』の心。いずれが正しくいずれが誤っているというのではないのだろうな。
共に大切なもの、どちらが欠けても充分ではないのだ。やはりお前たちは、双つで一つであったようだ。」
タナトスは微笑んだ。『死』を悪しきものとのみ決めつけ、故に其れを司るタナトスも、悪しき神と忌み嫌う他の神々には思いもよらぬのであろう、優しい微笑だった。
「往くが良い、エレフセウス。自由なる翼。
だが、もしその翼が折れたならば、いつでも帰ってくれば良い。傷を癒し再び空を舞うために。」
「エレフ。」
レオンティウスが進み出た。残る逞しい左手が、エレフセウスの肩をガッシリと掴む。
「忘れないで欲しい。ミーシャもアレクサンドラも、タナトスもクロニカも、そして私も……皆お前を好いている。
いかに離れていようとも、私達は、いつでもお前の傍らにある。エレフはもう、一匹狼(ひとりきり)ではないのだ。」
「王子──有り難う。」
エレフセウスも微笑みを返した。
「決して、忘れない。そして、諦めない。だって──
「「女神が戦わぬ者に、微笑むことなど決して無いのだから。」」
今や冥友たる兄弟の声が、至極自然に重なりあう。
そうしてどちらからともなく、笑い声が挙がった。
〜〜〜
“Аντο(サヨナラ)”は、言わなかった。エレフセウスにとって其れは、別離ではなく、ハジマリだったから。
《冥界の剣》を手に確かめ、虚空へと舞う。
背に、白き翼が現れた。
冷気を帯びた向風に、手折られることも恐れぬかのように、力強く羽ばたくその姿が変じて行く。
青年の姿から、空を舞う白き鳥の姿へと。
対の紫水晶は、未来をしかと見据えていた。
──ここからハジマル、争いの歴史を。
“歴史を導く白い鴉”
そんな伝説が語られるのは、これより遥か未来の物語。
(H22.2.16.)