この蒼い空の下で 弐

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「政宗様」


横合いから掛けられた声に視線を向ければ下げた頭を上げた小十郎が準備が整ったことを伝えてきた。

今夜、美夜の体に魂を移す。

詳しい方法はまだ聞いてはいないが、人一人の体を新たに生成するのだ。短時間に、そして簡単に終わるとは思えない。数日掛かる可能性もある。美夜が深窓の姫のように滅多に部屋から出ることが無かったのなら数日姿を見せなくなってもそれほど問題にはならないだろうが実際は真逆。

美夜は明るく社交的で、冷え込んで来た頃からは室内に居る時間が増えたようだがそれでもよく城中を歩き回り侍女だけでなく兵や下働きの者達とも親しく会話する。そんな美夜がどこかへ出掛けたわけでも無いのに姿を見せなくなれば誰もが美夜に何かあったのではと騒ぎになるはずだ。

俺が自由に動け、普段通りに振る舞っていれば城内の奴等もそれほど不安にはならないかもしれない。だが動けるか否かは実際には分からない。だからこそ騒ぎになるのを避けられるのならばそれに越したことはない。

今度のことに俺の行動の自由不自由が関わるのは美夜の体に魂を移すのを俺が行うためだ。俺を媒介にすることで美夜にこちらの世界との繋がりを持たせるのだという。そうなると事が終わるまで俺はその場を動くことが出来ない可能性もある。

俺が居なくとも政務に関しては小十郎や綱元が、攻め込まれ戦となれば成実も頼りになる。だがもし戦となれば頼りになる奴等がいても俺の不在は士気に大きく影響する。俺は隊の後方で指示だけ出すようなトップでは無いから尚更だ。

美夜だけでなく俺までが姿を見せなくなれば伊達軍とは思えぬほどに兵の士気は下がり、動きにも乱れが生まれるだろう。それを分かっていながら何の手も打たずにいればもしもの時に士気の低下が原因となり要らぬ被害を出してしまう。それを避けるためにも、また戦以外でも何が起きるか分からない以上あらゆる可能性を考慮して事前の根回しを小十郎に命じておいたのだ。


「少し前に美夜が眼を覚ました。ついでだ。食えるようなら飯を食わせるよう命じた。その後は自然に眠ってくれるならよし、中々眠らねえようなら…」

「に゙ゃーーっ!!」

「…………」

「…………」


一丈(約3メートル)ほど離れた部屋から聞こえてきた猫の悲鳴のような奇声に、示し合わせたわけでも無いのに二人同時に溜め息を吐いた。眼を覚ましそうな気配に気付き、念のためにと部屋から出ておいたのだが結局はこうなるらしい。噛み付かれたり目覚めたその時から騒がれるよりはマシなんだろうが先の事を考えると頭が痛い。式を上げるまでは最後までするつもりは無いがだからと言って一切手を出さないなど御免だ。心底愛する女を前にして手を出せないなんてどんな地獄だ!


「美夜様!? お止めください! お顔に傷が出来てしまいます!」


さらに聞こえてきた慌てた様子の楓の声とゴンゴンと打ち付けるような音に今度は片手で顔を覆う。その手に付いたうっすらと残る噛み跡に目が行き溜め息も吐きたい気持ちになった。


「……いざとなれば薬を混ぜた香を使えと楓に命じてある。どちらにしろ実行するのは皆が寝静まった頃だ」

「承知致しました」


落ち着かせるためかやや強引に茶を進める楓の声を聞きながら凭れていた壁から身を起こした。あの様子では飯を食わせるまでに時間が掛かるだろう。その間に身動き出来なくなった時に備えて前倒し出来る執務をこなしておくか。そう考え、小十郎を促し執務室へと足を向け掛け、ふと視線が向いた庭の様子に足を止めた。

夕闇に沈み始めた冬の庭。時折吹く風に揺れる松の木がさわりと小さく音を立てる。どこか物悲しさが漂う。


「なぁ、小十郎。……いや、何でもねえ」


口に出し掛けた言葉を飲み込み、緩く頭を振って歩き出そうとした足を、小十郎の声が止めた。


「迷っておられるのですか?」


ちらりと肩越しに振り返り、そうして視線を再び庭に向けた。彼女に似合うのは物悲しさ漂う冬の庭ではなく、穏やかな陽射しの降り注ぐ春の庭だろうと思う。それなのにこの庭に彼女の面影を見てしまったのは、きっと――。


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