短い物語

□《暴走列車》
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《暴走列車》




どことなく、視線を彷徨わせてしばらく立ち止まっていた。
滲んだ視界越しに、見るともなしに雪を見ている。
それが、半永久的に続くと思い込んでいた、その時。

白だけだった視界が、黒く塗りつぶされる。
己の瞼を閉じた感覚はなかった。
つまり、目の前の世界はたった今、確かに奇妙に歪んだのだ。
ふと確認してみると、何てことのない日常の景色が、気がつけばどこかの地下鉄のホームへと変貌を終えた。

涙まみれの視界を、仕方なく通常運転に切り替える。
手の甲で目をぬぐい、改めて周囲を眺めてみた。
灰色の床。
中央には背中合わせのベンチが二ずつ、等間隔で遠くまで並んでいる。
通常の駅であれば、上へと向かう階段があるはずだが、生憎それらしきものは見当たらない。
線路は何処までも暗闇へと延び、この駅と外の世界を完全に隔てている。

…いや、ここをホームと呼ぶのは果たして正しいのだろうか?
床には二本の白線も描かれているし、私の記憶の中の地下鉄のホームに酷く似ている。
けれど、ただそれだけ。
肝心の列車の姿は見当たらず、発車のベルも鳴っていない。
時刻を示す電光の掲示板もない。

「ここは、駅?」

ホームに反響したのは、若い男の声だった。
反射的に、声の聴こえた辺りに視線を向けてみる。
灰色の床とベンチしかなかったそこに、人間と思わしき存在がいた。
距離にして二メートルほど、おそらく声と体格から判断して、二十代前半。

『貴方は、誰ですか?』

疑問に対して、疑問で返してみる。
すると男は首を小さく傾けながら、不思議そうな顔をした。
…といっても、男の表情にほとんど変化はなかったけど。

男は、笑顔だった。
見開いた薄い色の瞳、上がりきった口角は深い笑みを形作っている。
しかしそれ以外に、表情はない。
いってみれば無表情なのに、口元だけが笑っているせいで違和感がすさまじい。

「僕、僕の名前は…というか、君は知ってるよね、僕の名前」

男は考え込むような仕草をし、私を指差しながらそう言った。

名前、目の前の男の名前。
自分の中の記憶を辿る。
辿りながら、改めて男をじっくりと観察する。
白いコートに、白い制帽、白い革靴。
手には白い手袋、左腕に青い腕章が巻いてある。
一見すると地下鉄の車掌のようだが、それにしたって何処かおかしい…気がする。
私も少し考え込んで、そして一つの答えにたどり着いた。

否、答えにしては随分妄想的な予想。

『…クダリ、さんでしょうか』

テレビの中でしか聞いたことのない、妙なイントネーション。
本来の単語とは違い、文頭にアクセントを付けて、やや緊張気味に声帯を震わせる。
男は笑みの色を濃くした(ように私は感じた)。

「あったりー」

間延びした返答を投げて寄越し、男は一歩私へと近寄った。
相手のコンパスは案外長いらしく、たった一歩で白いコートがほぼ目の前へとやってきた。
昔から身体が人より大きく、自分よりも大きな人と対峙するのはほとんど稀だ。
出会ったとしても、大抵は遠くからか、もしくは私と同じくらいか。

だが、目の前の男は違った。
私の目には白いコートの襟と、糊のきいたワイシャツと青いネクタイしか映し出されない。
首の角度を変えようか迷ったが、面倒な気持ちが先行したので止めておいた。

「それで君は、名無しちゃんかい?」

頭の上から声が降ってくる。
名前を言い当てられたことに何故か納得しながら、縦に一度頷く。

「そうかそうか、いつもと感じが違うから、ちょっと迷っちゃった」

男は楽しそうに笑った。
本当は、男の顔が少しでも本物らしい笑顔になっているのかどうか知りたかったのだが、嫌な予感がしたので寸前で中断。
無表情に声だけ笑っている姿なんて、あまり見ていて気持ち良いものじゃない。

「それじゃあ、立ち話もなんだから座ろうか」

男はそれだけ言うと、自分は手近なベンチにさっさと腰を下ろした。
再び私の視界には、無表情の笑顔が入り込む。
どうしたものかと私が躊躇うと、彼はベンチを軽く何度か叩いた。
無言だったけど、多分早くしろという意味だろう。
急かされたので、とりあえず男の隣に落ち着く。

しばらく、といっても多分数分だけ、無言で過ごしてみた。
右の存在は何も言わず、時折呼吸しているかどうか微妙に心配になる間があっただけだ。
いい加減何もしないのにも飽きたので、男の横顔へと視線をずらす。

『貴方は、本当にクダリさんですか』

我ながら捻りのない質問だったと思う。
案の定男は、割かしシンプルな疑問だね、と感想を漏らした。

「うん、僕クダリ。
君が考えている通り、サブウェイマスターをやっているクダリだよ」

予想が現実へと書き換えられる。
或いは虚像、或いは夢、或いは蜃気楼でもいい。
いずれにせよ、これは笑うべきところなのだろうか。

「別に信じなくてもいいけど、多分君は信じるだろうね。
君こういうことに耐性ありそうだし」

…おっしゃるとおりではあるが、何故か褒められている気がしない。
つまりは馬鹿にされているということか。

「馬鹿になんかしてないよ、客観的事実を述べたまでさ」

男は特に調子も上げたり下げたりせず、子供のように少し間延びした話し方をする。
そのせいか、益々もって記憶の中の存在に一致して、正直戸惑った。
そんな私の心なんて気にも留めず、今度は男から話しかけてきた。


「で、名無しちゃんはどうして僕を呼んだの?」
 
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