凸の悩み凹の憂欝
□君の棲む箱
4ページ/31ページ
俺が住む家は、高校からバスで15分程の高台にある。
土手添いを歩き、製紙工場を抜けて、バスに揺られて15分。坂道を登るとドーム型の屋根が見えてくる、それが俺の家だ。
古い洋式の建物が天文台のように見えるのは半球状の屋根の為で、それは祖父の趣味だった。
大学で天文学を教えていたから、やたら大きい高感度望遠鏡を持っている。それは屋根の下にある書斎に置かれ、祖父は暇さえあればレンズ越しに星を眺めていた。
「ただいま」
「おや桂吾」
垣根と垣根の隙間をくぐると、定位置に座る祖父が手を挙げた。
色々な花が咲く広い庭には、花以外にもいんげん豆や茄子やパセリなどの野菜も植えられる。これらは隠居した祖父の、もう一つの趣味だ。
「遅かったじゃないの。女とデートか」
「小島の家に寄ったんだよ。それより風邪は大丈夫」
「うんうん、薬を飲んだからね。感冒はひき始めに治すのがコツだ。今日の晩飯はカレーだよ」
夜だというのに庭に置いた古い長椅子に腰掛け、八十過ぎの祖父が自慢の白い髭をいじりながらニッコリ笑う。
「叔父さんのレパートリーは少ないからね」
「そうだな、カレーが6割、鍋物が4割だ。これに蒸し物や煮物が加われば合格点なのだけれども」
玄関を通らず客間の窓から入るのは、門扉が錆付いて開けるにはコツがいるからだ。
それがとても面倒臭く、今や門扉を開ける者はいない。家族全員だけでなく、配達人もが垣根をくぐる。
「叔父さんは」
「僕の書斎よ。朗(ろう)に占領されたから、僕はここにいるのである」
「ふうん、でも風邪を引くから中へ入ったら。もうじき好きな時代劇が始まるよ」
「そうだったそうだった。大岡越前」
客間を通ってキッチンへ入ると、カレーの匂いがした。
マッチを擦り、年代もののガスコンロに火を点ける。客間からはテレビの音が聞こえた。
「そうだ爺ちゃん、小島のお母さんが無花果をくれたんだけど、食べる?」
「おお、食う食う」
俺の両親は北にいる。去年、父が栄転で北海道勤務になり母親も付いていったのだ。
今、この天文台のような家にいるのは祖父と俺と、留守を預かる叔父の3人。あとは飼い猫のナツ。
食に幾らかの偏りはあるものの、男3人での気ままな生活は楽しく、俺はとても気に入っている。
「無花果なんて珍しいじゃない」
「近所から貰ったらしいんだけど苦手らしい。爺ちゃんならイケるんじゃないかって」
「楽にイケるな。まあ、独特な歯ざわりだから好みの出る果実だね」
皿に盛って出すと、器用に割いて食べている。
俺はキッチンへ戻り、温めたカレーを飯へかけた。じゃが芋がやたら大きい。叔父が作るカレーやシチューの類はいつもこんなで、祖父はこれに『ゴロゴ朗カレー』と駄洒落めいた名を付けた。
「桂吾、帰ってたのか」
「ただいま。カレーありがとう」
「よく食うな、小島の家で済ませてきたんだろう」
「いくら有り難がれても、行くたびにガツガツ食べたら悪いし。一応遠慮してるんだよ」
叔父の住臣朗は、今年40になる装丁作家だ。
そこそこ売れてはいるようで、便利だからと都心にマンションを買って住んでいたが、父の転勤を機にこの家へ拠点を変えた。
大丈夫だと言うのに、次の週には荷物と商売道具のパソコンを運び入れた。
心配だ何だと理由を付けてはいたが、叔父もこの田舎町で暮らしたかったのだろう。その証拠に、来た時の顔色の悪さは無くなり、今は進んで祖父と庭いじりなどをしている。
「こういう首輪の無い環境にいると、遊びまくるのが学生じゃないのか」
カレーを食べる俺の前に座り、グラスに注いだビールを飲んだ。
「なに、どういう意味」
「遊びに行くといったら小島の家か細木の家で、帰るのはせいぜい8時か9時。こう、もっと堕落していくもんだろう。家から飛び出して友人宅を転々としたり、クラブで薬浸けになったりさ」
「俺に薬をやらせたいわけ?叔父さんの言うそれはドラマや漫画によくある話であって、いたとしても一部だけ。みんな普通だよ、カラオケへ行ったり買い物へ行ったり」
「つまらん」
「つまらんって、なに」
「いつも涼しい顔をして。お前には葛藤というものが窺えない。何かに溺れ、誤りで身を崩すような激情性も無けりゃ破壊性も無い」
遊んで叱られず、遊ばない事で叱られるのは、この家くらいなのではないだろうか。
確かに叔父の言う通りだろう、俺自身、自分が面白い人間とは思えない。
部屋の向こうではお奉行様が難問題を裁いている。アニメでは子供が事件を解決するし、ドラマでは車が爆発したり家元が殺されたり、早朝にマラソンや犬を散歩させれば死体を発見したりする。
俺だけではなく叔父だって誰だって同じ、望んだところで、ドラマチックとは縁遠い日々なのだ。
.