凸の悩み凹の憂欝
□鴟尾の魚
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「あら、あなたが草一君ね。利発そうな子じゃないの」
「息子は外面だけが良いんですよ。甘やかさないでください」
家全体に風が回った頃、父が家主の豊田さんを連れて戻ってきた。
身長はあまり高くない。恰幅の良い体付きによく似合う明るい性格で、パーマが掛かった黒髪を1つに結んだ彼女は、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべながら、辺りを見渡した。
「そういえば、冬馬はどこにいるの」
「冬馬って」
「うちの息子が来なかったかしら。手伝いに寄越したんだけれど」
多分、さっきの高校生のことを言っているのだ。
豊田冬馬。奉星高校へ通う三年生。彼なら、とっくにどこかへ出かけたが、うまく言っておけという指示を思い出す。
「ちゃんと来ました。でも、友達から急に呼ばれたらしく、仕方なく出かけたんですけど」
文系ではないせいか、うまい言葉が見つからない。
応急措置的に継ぎ接ぎをしたところで、ぼろは出るのだ。
「あんな馬鹿に義理立てしなくて良いのよ。
どうせ遊びに行ったんでしょう。親に言われたからって、大人しく手伝うような子じゃないから」
「そんな事は無いです。雨戸も開けてくれましたし」
「ねえ津和吹さん。草一君、いい子に育ったじゃないの。
優しいし責任感もある。あなたに似て美男子だし、中学へ行ったら絶対にモテるわよ」
確かに父は姿が良く、幼稚園や小学校の先生にも人気があった。
それは自慢でもあったし、子供からすれば親が誉められるのは嬉しい。
けれど、親の前で誉められるというのはなんとも気恥ずかしいもので、僕は意味もなく、着ているシャツの裾をいじった。
「恐れ入ります。これから2人、お世話になります」
「こちらこそ。こんな店子さんなら大歓迎よ。
茄子を煮たから、後で持ってくるわね。パックから出す惣菜ばかりじゃ味気ないでしょう」
前掛けを軽くはたくと、豊田のおばさんは鼻歌を歌いながら帰っていった。
家はすぐ裏だ。頼れる人が近くにいるというのは心強い。
「良い大家さんで良かったな」
「そうだね」
このところ、父は引っ越しの手続きで、この町と住んでいた町を行ったり来たりしていた。
高校の同僚や校長との送別会が続いていたし、疲れも溜まっているだろう、それが顔にも出ている。
「ねえ父さん。布団をほどくから、少し寝たら良いよ。夕ご飯になったら起こすから」
「しかし、お前だって疲れているだろう」
「僕は電車で眠ったから大丈夫だよ。今から家の中もじっくり見たいし」
「そうか。なら甘えさせて貰うかな」
回り廊下の先には六畳と四畳半の部屋があり、六畳間に新しく買った布団を敷くと、父を急かして押し込めた。
畳の隅にも廊下にも、埃が落ちていない。きっと父が掃除したのだろう。
もっと頼ってくれたら良いのにと、いつも思う。
「二人きりなんだから」
そっと覗いてみると、父は既に眠り、寝息をたてている。
まだ若いとはいえ、無茶が通じる程の体力は無い。あんな顔を見れば、やはり心配になってくる。
音を立てないようにその場を離れ、僕は家の中を見て回った。
台所にはレトロな壁紙が貼られ、旧式冷蔵庫と、やけに頑丈そうなコンロとシンクというシンプルな造りだ。
でも、流し台の上には見たことも無い器具が設置されてある。蛇腹の蛇口らしきものが出ているが、そこからが分からない。
そんな台所の奥は脱衣場、風呂場と続いている。
風呂場は狭く煤けた水色のタイル貼り。光を入れる窓が小さくて、少し暗いけれど檜の浴槽だ。
この特徴のある香りが好きだし、夜が楽しみになってくる。
「あ、食材入れなきゃ」
途中に買ってきた豆腐や惣菜を、すっかり忘れてテーブルの上へ置いたままだった。慌てて冷蔵庫を開けた。
何も入っていないがらんとした冷蔵庫。ここに少しずつ物が増えていく。
卵に納豆に、父の好きな海苔の佃煮。全てが収まった時、少しはこの町に慣れているだろうか。
「買うものをリストアップしないといけないな」
米だけは炊こうと炊飯器は用意してある。
明日の日曜日には荷物が届くから、今夜のうちに力を付けておかなければ。
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