凸の悩み凹の憂欝

□鴟尾の魚
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「さあ、ここが俺たちの新居だ。少々狭いが風呂もあるし、2人で暮らすには充分だろう」

階段を下り、商店で惣菜を買い、垣根に挟まれた路地を歩いていくと、木造平屋建ての家の前へ出た。
高台から見たのと同じ、黒い瓦屋根を葺き、細い竹を組んだ塀から椿の枝が見えるところを見ると、庭もあるようだ。


「疲れただろう。荷物を下ろして一休みしていろ。
俺は取りあえず、大家さんの家へ顔を出してくるから」

窓を開けて風を入れてくれと頼み、父は路地を歩いていった。
手渡された鍵は2つ。その片方を門扉の鍵穴に差し込むと、うまく回った。
入った事もない新しい家に緊張感と高揚感を抱いた。
門扉を開けるとすぐに玄関とぶつかり、さっきとは別の鍵を使い、引き戸を滑らせると、カラカラと良い音がした。


「これは古いな」

雨戸が閉めきられたそこは暗く、それでも空気は澄んでいる。おそらく、家主が越してくる僕達の為に手を入れてくれたのだろう。

すぐに目が慣れ間取りも分かってくる。
玄関を入ってすぐに上がりかまちがあり、右には回り廊下が奥まで伸びている。左側は他より明るく、台所だと分かった。


「まずは雨戸だな」

奥は更に暗く、何か得体の知れないものが、息を殺して潜んでいるような恐さもあったけれど、それよりも見事な欄間(らんま)に目がいった。

魚や椿の花など、襖の上を飾る彫刻はいつ誰が作ったものなのか、浮き出る鱗や花弁へ目を遣りながら、靴を脱いでガラス戸に手を掛ける。
しかし鍵が掛かっているらしく、戸は少しも動かない。マンションのサッシとは造りが違うようで、鍵がどこに付いているかさえも分からなかった。


「鍵は、こうやって開けるんだ」

突然声がしたかと思ったら、暗闇の中に現れた人物は僕を退かし、窓枠に付いていた突起をひねる。
回すとそれは螺旋のように外れ、何事も無かったようにガラス戸は開かれた。


「こんな鍵は珍しいだろ。雨戸をひとつ開けるのにもコツがいる。厄介な部屋を借りたな」

「あの、あなたは」

背丈は僕よりもずっと高く、大人かと思えば声は若く、アニメで聞くような張りのある声だ。
僕を横へ置いたまま手際よく雨戸が開けられると、初夏の風と一緒に光が飛び込み、眩しさに思わず目を細めた。


「俺は大家の息子だよ。お前の親父、奉星の先生になるんだろう」

明るい茶髪に派手なプリントのTシャツと、この古い家には似合わない風貌。
彼が言う奉星(ほうせい)というのは、父が勤務する私立高校の名前だ。


「先生に世話になるんだから手伝ってこいって、母ちゃんが煩くてよ」

「世話にって、奉星高校へ通ってるんですか」

「そう。3年だから、世話になるといっても半年くらいだけどな。さっきうちに挨拶に来てたけど、格好良い親父だな」

雨戸が開けられ、明るくなった部屋を見渡せば、そこはまた良い感じに古い。
回り廊下に囲まれた六畳間と玄関前にある4畳の部屋は襖で仕切られ、それを取り払えば広い10畳間へと変わる。
その襖の上にも欄間があり、雀が柿の木に留まる図が特に気に入った。


「お前、名前は」

「津和吹です。津和吹草一」

「草一か。母ちゃんとも話してたんだけど、津和吹ってあんまり聞かない名字だよな」

臆さない性格なのか、それとも年下相手で気を遣う必要が無いからか、高校生の口振りには遠慮がない。
それでも人の善さを感じた。相手に向き合い、妙な薄笑いなどせずに話す。
人を威嚇するような見た目とは違い、安心に肩から少し力を抜いた時、いきなり視界がぼやけた。
かけていた眼鏡を取られたのだ。


「へえ」

「いきなり、なんですか」

「男が眼鏡を掛けると、男前が2割り増しになるって聞いたことがあるけど、お前の場合は眼鏡が無いほうが3割り増しだな」

眼鏡はすぐに返され、高校生は名乗らないまま、玄関でビーチサンダルを履き始めた。


「手伝ってくれるんじゃないんですか」

「手伝っただろう。鍵を教えて雨戸を開けてやった。母ちゃんにはうまく言っておけよ」


じゃあなと手を振り、大家の息子はさっさと外へ出ていった。



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