Fantasy

□紅黒ニ秘スル【九】
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「アハっ、あんた、一々反応が
面白いな。な、なんて名前? 
ひとり?」

 達海は軽く笑うとさらに身を
屈めて、佐倉の顔を覗き込んで
きたではないか。

「あ、え、はっ……はい、ひと
りと言います、佐倉です……あ、
あれ?」

 問われた順番と解答が逆にな
るほどには舞い上がっている佐
倉に、達海が大口を開けて笑う。

「なに云ってんだよ、あんた!
ははっ、腹痛ぇ!」

 ケラケラと笑う姿さえどこと
なく艶やかで、佐倉は真っ赤に
なりながら達海を見つめるしか
なかった。

「ははっ、はー……おかし……
な、あんた、佐倉でいーの?」
「え……はっ、はい!」
「じゃ、佐倉。どこ行くはずだ
ったんだ? その腫れ方だと、
結構足止め食ってるだろ」

 まことに情けないがその通り
で、足を着くと痛くて立つこと
ができないのだ。
 しかし、萎れてうなだれる佐
倉を覗き込んでいた達海が、ぽ
ん、と癖っ毛に手を乗せてよし
よしと撫でるではないか。
 ふわりと漂った芳香に頭の中
が蕩けて、一瞬だけ佐倉の生き
る世の中には達海しかいなくな
り、気づけば達海の手をしっか
りと握っていた。

「?」
「あっ! す、すみませんすみ
ません!」
「ん? うん、別に握手くらい
いいけど……あれ、なんか顔真
っ赤? 大丈夫、佐倉?」

 名を呼ばれると、背中に何か
が走って、自分がこの男に強く
惹かれているのを自覚した。
 憧憬というには深すぎるが、
恋と云えるほど強くない。
 恋だと云うなら、古内に抱く
想いの方だ。
 切なく、やりきれないのに、
古内が愛しくて慕わしくて仕方
ない。
 振り向いてもらえないのはわ
かっているが、それでも止めら
れないのだ。

「だ、大丈夫です!」
「あ、そう? じゃあいいや。
で、どこまで行くって?」
「は、はい……実は、まだ決め
てなくて。ずいぶん歩き回って
色んなところを回ってるんです
が、もともと宛てがないもので」
「ふーん。じゃ、一緒に行く?」
「え?」
「俺もさ、宛てなんてないの。
ふらふらって」

 云って笑う達海は背中に三弦
があって、それ以上のものはな
いように見える。
 ただ、ふと見えた。
 彼の右足首に走る、引き攣れ
た傷痕。肉がえぐられた状態で
なければ、こういう傷の残り方
にはならないはずで、一目見て
腱が切断している深さだとわか
る幅だった。
 この足では、二度とあの舞を
舞うことは不可能だろう。
 いや、走ることすら、難しい
かもしれない。

「肩くらい貸すしさ」

 云って、達海が佐倉の左肩に
入る。

「もう、後半刻も歩けば次の宿
場だからさ。頑張ってよ」

 屈託なく笑う達海は、失った
ものを感じさせないほど鮮烈に
人を引き付けて、佐倉は達海の
足を気にしながらもなんとか立
ち上がる。
 達海はそのたまま、この辺り
の農村で豊作を願って歌う唄を
歌いだし、佐倉はそれを励みに
なんとか歩いて、宿場に着いた
ときには既に日が暮れていた。
 あのまま道端で途方に暮れて
いたら、確実に寒さで凍死して
いたろうと思う。
 季節はこれからが冬、まだ雪
こそ降っていないものの、夜は
芯から冷える季節だ。

「なんだか、すっかりご迷惑を
おかけしてしまって……すみま
せん」
「別にいーよ。それより、佐倉
はなんでひとりで旅してんの?」
「え?」

 運よく空いていた部屋にふた
りで入ると、湯を使った後に達
海が佐倉の足を手当してくれて、
宿の主人が好意で出してくれた
飯を食べながらそう尋ねられた。
 しかし、すでに三十も後半の
男が恋の悩みなどとは笑われそ
うで、口にするのは躊躇われる。
 なんと答えようかと思案して
いると、達海がごった煮に飯を
突っ込んだだけのおじやをお代
わりしながらニヒ、と笑った。

「色事か?」
「え、なんでわかっ……あっ!」

 うっかり口が滑った佐倉に、
達海がしてやったりという顔を
する。なんとも無邪気な表情は、
まるで悪戯っ子だ。

「やっぱりな。なんか色っぽい
顔して悩んでるから、そうじゃ
ないかと思った」
「色っぽい? まさか!」

 佐倉は大きく両手と首を振っ
た。色っぽいなどとんでもない。
 しかもそれを達海から云われ
たということが、より一層佐倉
を動揺させた。




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