Fantasy

□紅黒ニ秘スル【九】
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 逃げられた。
 湯屋で、達海の名を出した男
の話を聞いていると、笠野の名
が出てきた。
 だから咄嗟に追い掛けて行っ
たのだが、思わぬ形で現れた小
柄な男に阻まれて逃げられた。
 相変わらず体力がない。
 大通りに出られて、人波を掻
き分けているうちに見失ってし
まった。
 とぼとぼと茶屋に向かって腰
を下ろす。陶器の器に注がれた
冷茶を飲み干して息をつき、帰
路についた。

「……はぁー」
「どうした、佐倉。ずいぶんと
落胆しているようじゃないか」

 役所に戻って自分の席に着い
た佐倉は、年上の部下である古
内に声をかけられ、机の上に乗
せた顎をちょいと上げた。

「あぁ……ケン。それが、僕が
ヘマをしたせいで、笠野氏への
手掛かりを逃してしまったんだ」
「笠野……というと、達海の件
だな?」
「うん。達海さんを救うには、
笠野氏の証言は必須なのに……
どうして僕はこうなんだろう」

 小柄な男が現れたとき、不破
や平泉の手の者かと思って咄嗟
に刀に手を伸ばしてしまったの
が悪かった。
 警戒されて走られては、体力
のない佐倉に追いつけるはずも
なく、己が走っていては呼び止
めることもできない。
 再び深いため息をついた佐倉
に、古内は爽やかな笑みを浮か
べた。

「なに、気に病むことはない。
今日がダメだとしても、君は決
して諦めない男だろう? 不破
や平泉に負けるはずはないさ」
「ケン……!」

 励まされた佐倉は一瞬喜びか
けたが、思い直して気を引き締
める。
 自分が手掛かりを掴み損ねた
のは間違いのないことだ。

「ケン、僕は頑張るよ。必ず達
海さんを自由にするんだ」
「その意気だ。達海は佐倉の憧
れだし、なにより僕たちにとっ
て、縁を取り持ってくれた恩人
でもある」

 云って、古内は佐倉の手をふ
わりと握る。
 佐倉は自分の頬に赤みがさす
のを抑えられず、俯いてその日
のことを思い出した。
 あの頃、佐倉は古内をただ好
きだった。
 なにもできないのに彼の上司
であることがつらくて、思い悩
んで出張と偽り街の外に出たの
だ。
 達海に会ったのはそんなとき、
思えばなんとも情けない出会い
方だった。


「ねー、あんた、そんなとこで
なにやってんの」

 声を掛けてきたのは明るい髪
色の、やけに着物を着崩した男
で、少年のような面差しの中に
奇妙なほどの色気を含んだ艶め
かしさが佐倉の目を奪った。
 道端に座り込んでいる佐倉の
目線に合わせてしゃがみ込んで
尋ねてくる彼の顔を、佐倉は見
たことがあったからだ。

「……た、達海、」
「ん? あれ、俺のこと知って
る?」
「……!」

 本物だ。
 本物の、伝説の大華。
 切なく胸に訴えかける愛しい
男への想いを込めた舞を、佐倉
の家を継いだときに催された宴
で見た。
 流れるような指先、音を立て
ない足運び。着物が擦れる音が
やけに生々しく響いて、まるで
彼を裸にしていくような気分が
した。
 投げられる視線、うっすらと
開いた口許。
 化粧はごく薄いのに、印象的
な香がした。
 自分の宴で舞った後、帰り際
に何者かに襲われ、姿を消した
芸妓。
 あの時の紅い布地に黒い蝶柄
の女物ではなく、至って普通の
男物を着ていても見間違えるは
ずがない。
 それほどに美しい男だ。

「ま、いーや。ねぇ、もしかし
て怪我してんの?」
「えっ、あ、その……お恥ずか
しながら足をくじきまして……」
「……こんな、なんにもない平
坦な道でか?」
「うっ!」

 云われると落ち込むしかない
が、全くもってその通りである。
 街道をひたすら西に歩いてい
たのだが、途中で脚がもつれて
転んだ。現在は一応、名目上だ
けとはいえ武官のくせに、体力
がなさすぎる。
 くたびれて腰を下ろせば立ち
上がれなくなるのは確実だった
から歩き続けたのに、それで重
たくなった脚が勝手にもつれて
はもともこもない。
 佐倉は情けない気分を隠し切
れずにがっくりとうなだれた。
達海はきっと大いに呆れたであ
ろう。
 そう思ったのだが。




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