保健室の死神

□忘失
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いまどきこんな古典的な方法があるだろうかというぐらい古典的な方法で。
派出須逸人は突然背後から薬品をかがされ、力なく昏倒した。
皆が去ったあとの放課後の保健室での出来事だった。
手のひらから茶菓子の入った箱がこぼれ、そうして自身の体がひざをつき、床に倒れ込んだのだと知覚したところで派出須の意識は遮断された。
−まだ、やることが、仕事が残っていたのに…。
そんな場違いなことを考えながら。


目を覚ました場所は、暑くも寒くもない、空調の整った空間だった。
いまの季節は、まだコートが必要な時期だ。
視界がはっきりしないせいで断定はできないが、そこは倉庫のような建物の中ではなく、住居のような場所だった。
ぼうっと、覚醒しながらも今一つ意識のはっきりしないままで、派出須はしかし、ここはどこだろうと思いを巡らせる。
どうやら両手を後ろで縛られた状態で転がされているようで、身動きは取れない。
生命の危機を感じるような態度になれないのは薬のせいだけでなく、この状況を面白がった冷血が意図的に緊張や危機感といったものを咀嚼しているのかもしれなかった。
薬が抜けきっていない体でそうしてぐったりとしたまま、派出須は視界に映る扉を見ていた。
床はやはり倉庫のような石や打ちっぱなしのセメントではなく、フローリングのようだ。
しかし、家具らしきものは一切ない。
床に転がされている視点からは埃がうっすらと見え、この部屋があまり使われていない部屋であることがぼんやりとした頭でも分かった。
目に映る視界の中に窓はない。
もしかしたら背後の天井近くにはあるのかもしれないが、採光がなされている様子は床に見えなかった。
何もなく、空調だけが効いた部屋はまるで箱のようだ。
身動きが取れず転がされているだけの派出須はさながら箱に入れられた人形と言えた。
「(ここには誰がいるのだろう…)」
閉ざされた扉。
おそらくあれには鍵が掛けられているのだろう。
自分がこうして拉致される理由が分からなかった。
自分はかよわくもなんともない男であるし、背丈だけ見ても大柄な部類に入るので、このような目に遭うなどということも考えたことがなかった。
物好きなのかもしれない。
だって、自分を拉致したところで犯人には得るものがない。
自分はしがない公務員であるし、家が裕福なわけでもない。
ただの派出須逸人だ。
何が目的で自分がこんな状況にいるのか、派出須はいくら考えても分からなかった。
未だ抜けきらない倦怠感に身を預けていると、がちゃりと音がして、扉が開いた。
薄暗い部屋に、かつんと硬い靴音が響く。
部屋に入ってきた人物の顔を見て、派出須はぼんやりとした意識のまま、唇を開いた。

「逸人がいなくなった…?!」
三途川から電話で連絡を受けるも、状況が掴めず、眉間に皺を寄せて訊きかえす。
その隣では鈍が息を詰めて様子を窺っていた。
「おう、おう、分かった、これからそっちに行く」
携帯を切り、経一が鈍に顔を振り向ける。
「鈍ちゃん、体、大丈夫か?」
昼間の一件から無理はさせられないが、ユグドラシルに1人置いていくわけにもいかない。
「ええ…行くわ、あんな状態の逸人を放ってはおけないもの」
経一は頷くとタクシーの番号を呼び出し、そこまでしなくとも大丈夫だという鈍を無理矢理そちらに乗せ、自身はバイクで、共に常伏中学へと向かった。

三途川は内心で己の失態を口汚く罵らないではいられなかった。
派出須は真理也によって記憶を奪われた直後だった。
病魔を咀嚼していない状態ではいずれ派出須自身の持つ感情が枯渇し、深刻な事態におよぶ。
自宅に一人で帰らせた場合明日の明け方にはどんな状態になっているか油断が出来ないため、三途川は派出須へ自身の自宅への宿泊を勧め、残りの仕事を終わらせんと分かれた直後だった。
予測できたはずの事態だった。
ユグドラシルで鈍が襲われ、派出須の記憶が奪われたこのタイミングでの彼の失踪は、偶然などとは到底考えられなかった。
それに、校内に侵入したにしては玄関にも守衛にも痕跡が残っていなかった。
そこで思い至るのはただひとつ。
痕跡を残さず人ひとりを拉致できる能力など、経一たちが遭遇したという真理也の一派のストーゲという男の空間転移以外に思いつかない。
犯人はおそらく…。

「まり、や…?」
ぼんやりとした頭で、見覚えのある顔のその人物の名前を唇でなぞる。
薬の余韻と、ひさしぶりに出したせいで発声がおぼつかない。
笑みを浮かべ、真理也は派出須に呼びかけた。
「よく眠れたか?逸人」
「どう、して…」
「…お前と話したかったからだよ」
真理也がゆっくりと近づいてくる。
それなら、普通に連絡をとるなり、なんなら学校に訪ねてくればいい。
「普通に会ってもお前は素直に俺の話を聞いてくれそうになかったからな…こうさせてもらったんだ」
ひざをついてしゃがみこんだ真理也は派出須の前髪をかきあげた。
「…?」
真理也の言っていることの意味が分からない。
考えようとしても意識がかすんで、はっきりと考えることが出来ない。
『思い出せない』。
真理也とは最近久しぶりに再会した。
常伏の商店街で。
でもそれ以外に真理也と会ってはいないはずだ。
自分と真理也は諍いなど起こしていない。
こんな手段を取らなければならなかった理由が分からない。
こうでもしなければ自分が会おうとしないようなことが、自身と真理也の間にいつ起こったというのか。
『思い出せない』。
すると、真理也はひとり合点がいったように、ああと頷いて微笑んだ。
「そうだな…『これ』自体も、消してしまわないとな」
首を傾げられる状態なら傾げていただろう。
「まり…」
「もう一度眠るといい、逸人…今度目が覚めたときには一緒にコーヒーでも飲もうじゃないか」
人差し指が額にあてられる。
優しげなその声を最後に、派出須の意識は白い光にあてられて、再び深い闇へと落ちた。

部屋の外へ出ると、そこには長身の影があった。
「…ストーゲ」
「ハデスイツヒトは目覚めたのか」
その問いには答えずに、真理也はストーゲの横をすっと通り抜ける。
「…ご苦労だった。移動させてすぐですまないが、逸人をこれから俺が言う場所に運んでくれないか」
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