保健室の死神

□向日葵
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今年の春は、まるで春になるタイミングを忘れてしまったようで、比較的あたたかい地域と言える常伏の町も、3月になっても未だ10度を前後する日が続いている。
昨日など雪がちらついたほどだ。

すっかり遅くなってしまった。

今日は派出須が赴任して5度目の中学校の卒業式。
幸い昨日の雪は今日に続かず、無事生徒達の制服の裾が泥で汚れることもなく、気持ちよく式を終えることが出来た。
そして卒業生を送り出した後の教職員全員での慰労会が開けた頃には、時計の短針は12時を少し過ぎた辺りにまで歩を進めていた。
灯りの落ちた住宅街は、静けさに包まれている。
三途川校長や教頭、絶花や才崎たちと分かれ、派出須は1人、自宅への帰途にあった。
ひんやりとした空気が、卒業式で昂った気持ちや場の熱に浮かされた身体に心地よい。
そんな心地よさを抱きながら、ゆるやかだが深夜の坂道を上りきったところで、ポケットの中の携帯が震えた。
取り出して電話に出ようとするも、慌てているところに手袋が邪魔をしてうまく二つ折りの携帯を開くことができない。
手袋を外せば良いだけの話なのだが、「出なければ」という思いで頭が一杯になってしまっている派出須はそこまで気が回らないらしく、手袋をつけたまま手を滑らせたり、必死に隙間に指を入れ込もうと奮闘している。
しかし、そんな風にして悪戦苦闘しながらもなんとか開いた瞬間、派出須の右手の親指は、無情にも一番押してはならないところを押してしまった。

ピッ。

「えっ、あっ…!?」
一瞬にして訪れる静寂。
5年前の購入から何度やったか分からない、電源ボタンの誤打だった。
声にならない後悔が肩を震わせる。
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、派出須は急いで手袋を外して携帯を開いた。

着信履歴には『藤くん』の表示。

「ああもう…」
自らのそそっかしさに悪態をつきながら、顔を覆った手のひらの下でため息をもらす。
平身低頭謝り倒したい気持ちを抱いて掛け直そうとしたところで、画面が動き、再びディスプレイに『藤くん』の字が表示された。
「!もっ、もしもし!?」
すぐ通話ボタンを押し、身を乗り出すようにして言葉を投げる。
するとスピーカーの向こうで聞き慣れた声が笑うのが聞こえた。
「藤くん?」
『慌てすぎ。さっきのもあんた、間違えて電源押したろ』
「えっ、あの、その…ご、ごめ」
『いーって、気にすんなよ。あんたのそれは年中行事だし』
年中行事と言われて、派出須はがくりと肩を落とす。
『だーから落ち込むなって』
「…うん…そうだね…ふふ、ふ…」
一種諦めに似た笑みを浮かべ、力無い声を出して笑う。
二度とやるまい、と何度誓ったか分からない思いを胸に誓うと、派出須は気持ちを切り替えるように息をついて、藤くん、と呼び掛けた。
「…久しぶりだね。お家のお手伝いはどう?」
『眠い。だりー』
「ふふ、藤くんらしいね」
『ったく山蔵のヤローが人のことコキ使い過ぎんだよ…昼寝は出来ねーし、あんたの顔も見れねーし』
「!」
さらりと言われた言葉に、かあっ、と頬に熱が集まる。
『先生?』
「あっ、その、うん……僕も、……藤くんの顔を見れないのは少し、寂しいな…」
『…』
「?」
『…はあー』
「ど、どうしたの?」
『や、あんたの顔見たいなーと思って』
「藤くん…」
現在、高校の卒業式を終え、大学の入学式までの間の春休みを、藤は兄である山蔵の指示の下、実家ではなく京都の支店の手伝いをして過ごしている。
そのため、お互いの声を聞く手段は今は電話しかない。
それさえも、忙しさからこのところ、藤は満足に連絡を取ることさえ叶わなかった。
『なあ』
「ん?何だい?」
『夏休みにさ、どっか行きたいとことか、ある?』
「なんだい?突然…」
『いいから』
「うーん…夏休み…」
『どこでもいいぜ、俺それまでに免許取るから』
「え?別に、車で行けるところなら僕が運転するよ?」
『分かってねーなー…そこは運転したいだろ、その…男として』
「?…よく分からないけど、身分証明書として使うには便利だから、取っておいてもいいかもしれないね」
派出須がそう言うと、スピーカーの向こうで藤の深く長く嘆息したのが分かった。
『…うん、あんたはそういう感性だったそうだった。で、どーよ?何かある?』
「?…そうだなあ」
そう言ったきり派出須は黙って考え込み、しばしの沈黙が2人の間に落ちる。
やがて控えめに、派出須が口を開いた。
「向日葵畑…なんてどうだろう?」
『ひまわり畑?』
「だめかな?」
『だめじゃねーけど、なんで?』
「んー…、なんとなく。でも行ったことがないから、行ってみたいなあと思って」
『あんたって割とロマンチストだよな』
「そうかな?」
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