保健室の死神

□ハチミツ
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「あー…よく寝た…」
豪快にあくびをしながらベッドを降り、しゃっと仕切りを開ける。
「?!」
気持ち良く目を開いた瞬間、藤は目の前の光景に固まった。
シンクの前で、薬指に付着したらしい透明な糸を引く何かを、派出須が舌で舐め取っていた。
「なんっ…?」
突然視界に入った光景が衝撃的過ぎて、息が止まる。
「あ」
『見つかった』というようなきょとんとした派出須と目が合った。
「な、な、な…?」
指を差して言及しようとするが動揺が邪魔をして言葉にならない。
何の事か分からず派出須は首を傾げたが、指を差された先にあった手元の小瓶に目を落とし、ああと頷いた。
「ハチミツ。手についちゃって…」
これこれ、とくるりとラベルが藤に見えるように小瓶を回す。
「はち、みつ?」
未だに舌と思考が上手く回らず、オウム返しにしか応えられなかった。
「夏風邪で喉を痛める子が多いから、大根飴を作ろうと思ってね」
「大根…ああ、そういやお婆もそんなの作ってたな…」
まだ微妙に挙動のおかしい鼓動を感じながらも、脳裏に冬の炊事場の光景がよみがえる。
細かく切った大根の入った大きなガラス瓶に、婆やが同じようにしてハチミツやら生姜やらを流し込んだりしていた。
「今ちょうど作り終わったところだったんだよ」
よいしょとシンクから取り出された瓶。
それは家で見掛けたのよりも少し小振りな瓶だったが、中身の感じは家で作っていたものと全く一緒だった。
それを見、はぁ、と色んな思いを込めて息を吐く。
頭をがりがりと掻きながら、藤は派出須をじとりと見つめた。
「…ったく、ハチミツぐらいうまいこと入れろよ。んで、舐めてないでさっさと手洗え。心臓に悪い」
「あ、うん、ごめんね?」
言われて慌てて水道の蛇口をひねる。
最後の"心臓に悪い"の意味だけ分からず、首を傾げたまま。
見本のような手順と指使いで手を洗う派出須の隣で、藤がぼそりと呟いた。
「…ったく、隙だらけなんだよ…俺の身にもなれっつの」
「?」
何の事かと派出須が不思議そうに顔を向ける。
「…あんたは保健室で気緩め過ぎっつってんの」
振り向いた顔にバサッとタオルを投げ付け、藤はそっぽを向いた。
綺麗になった指先が、きゅっと蛇口を閉める。
「藤くん」
投げ付けられたタオルを取って、ベッドのパイプにもたれた藤に派出須が笑いかけた。
「心配してくれたんだね。ありがとう」
「かッ…」
あまりに遠回しな言葉を投げている自分も悪いが、こうも伝わらないと暴れたくなってくる。
そんな派出須の鈍さと他意のない笑みに言葉を次ぐ回路が焼き切れたのか、藤の口からは意味不明な声が漏れた。
「うー…」
泣きそうな声で呻き、手で顔を覆う。
「?藤く…」
あまりにも一瞬の出来事だった。
「―…」
派出須の手から、するりと指の間をすり抜けてタオルが落ちた。
僅かに見開いた目は、しかし1度ぱちりと瞬きをしたまま、咄嗟のことへの理解が遠いことを示していた。
すぐさま唇を離して、藤は真っ赤になった顔を隠すように俯いて声を絞り出す。
「俺が言ってるのは…こういうこと」
それだけ精一杯に呟いて、耐え切れず保健室を飛び出した。
廊下の突き当たりまで行ったところで、遠く背後でガシャンという音。
飛び出した際にドアを押さえ付けたのだろう。
何か叫んでいる。
振り返ることなど出来なかった。



何をしたんだろうと自分でも思う。
心臓が爆発しそうだ。
唇に指先でそっと触れる。
甘く残る余韻。
「…」
蜂蜜の、味がした。
 

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