その他SS

□桜酒
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筆先を墨に浸したところで板のきしむ音が聞こえ、文彦は筆を置いた。
ほどなくして、とんとんと板張りの階段を上がる足音が近づき、そっとふすまが開かれる。
「いたか」
「先生、また飲んでいらっしゃいますね」
座布団をすすめると、先生と呼ばれた壮年の師はどかりとそれに腰を下ろした。
「桜が綺麗でな」
言われて雲の透かし彫りのされた硝子窓の向こうへ目を向ける。
この下宿の前には大きな桜の木が植えられている。
それは見事な桜の大樹だ。
目を戻すと、師は懐に入れていたらしい小瓶の清酒を注ぎ、小さな盃を傾けていた。
「奥様に叱られますよ」
そう言い差す文彦に、唇をぺろりと舐めて師はなんでもないことのように口角を上げる。
「あやつのあれは息をするのと同じことだによって、好きにさせれば良いのだ」
「奥様に叱られますよ」
冗談めかして重ねて言葉を継ぐ。
それを聞かぬ風に二度目の杯を干すと、師は声の調子を変えた。
「文彦」
「はい」
文彦も背を正し、穏やかに、しかし真っ直ぐに師の眼を見つめる。
「気持ちは変わらんか」
「残念ながら」
「そうか」
「文は出します」
「いらん。男の文なぞ面白くもなんともない」
「じゃあ出します」
はぁと師はため息をついたのちに、先ほどまで文彦が向かっていた文机を見つめた。
旅日記、と凝ることもなく適当に題された原稿用紙が見えた。
「恋は好かぬか」
「好かぬではないです」
「色は足を呼ぶぞ」
「私には向きません」
そう言うと師はもう一度、今度は笑うようにため息をついた。
「いつの汽車に乗る」
「明日の一番で発ちます」
「桜を追うか」
「いえ、南へ下ろうかと」
「ほう?」
「少しばかり面白い出会いをいたしましたもので」
島唄を歌う一人の少女を愚直に好いた剃髪の青年は、いま頃どうしているだろうか。
彼は奄美の地へ向かうと言っていた。
ならば風の噂を聞きながら渡ってみるのも面白い、と。
ふと、そんなことを思ったのだった。
「お前を動かす御仁とは、それはなかなか面白い」
「さても、再びあいまみえますかどうか」
「そういう御仁とはまた会うものさね」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
師が取り出した盃を受け取り、清酒で喉を潤す。
「南へ拠るのなら、播磨と薩摩には俺のつてがある。うまく使え」
「今日初めて先生が頼もしく見えました」
「そうだろうそうだろう、ありがたく思えクソ弟子」
「文は出します」
「文はいらん。書を寄越せ」
「ありがとうございます」

汽笛が鳴る。
『せめて一冊ぐらいまともに師の本を読まんか』とねじ込まれた本には、師の2人の知人の連絡先が書かれた紙が、わずかと言うには多い金子と共に封筒に入れられ挟まれていた。
汽車の風の巻き上げた桜の花びらが、幾枚か車内へと吹き込む。
そのうちの一枚がひらりと、同じく桜の意匠の凝らされた師の本に落ちた。
女学生と書生の恋模様の描かれたその一冊の最初の頁。
扉と遊び紙の間に花びらを挟み、文彦はそれを丁寧に鞄の中へと仕舞った。
 

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