保健室の死神

□忘失
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「それは構わんが…」
「助かる」
真理也はストーゲにそれ以上言葉を重ねる隙を与えなかった。
「…」
ストーゲは、水を飲んでくる、と言って場を離れた真理也の背をしばらく見つめていたが、やがて静かに、たった今真理也の出てきた部屋の扉を開けた。


「SICKs…」
経一はその名前を聞いて歯噛みした。
まさか派出須を捕えに来るとは考えてもいなかった。
病魔を咀嚼できなくした以上、しばらく手を出して来はすまいと油断していた。
「おそらく、逸人くんは彼らのアジトだ。今の状態の逸人くんが病魔絡みで飛び出していくとは考えづらい。それに、誰も学校から出ていく逸人くんを目撃していない」
「あのハゲの野郎か…千歳ちゃんの言う通り、SICKsの…真理也の野郎の仕業だろうな…」
「アジトさえ、突き止められれば…」
自らも襲撃を受けた鈍が、昼間に痛めつけられた個所を押さえながら、息を絞り出すように呻く。
生徒たちを送り出した直後に不意を打たれたのだろう、床には茶菓子が落ち、盆が転がったままになっていた。
「私もできる限りの情報網を使って探してみるが、君たちも怪しい場所を探ってみてくれ。何か少しでも引っかかる場所を見つけたらすぐに連絡する。鈍くんは無理をしないように」
「おう、千歳ちゃんも気を付けろよ」
「ああ。君も、くれぐれも自分だけで突っ込んで行ったりしないように」


思考がまとまらない。
身体が気だるく、目蓋を開くのでさえ億劫に感じられる。
自分は、何かによりかかるような体勢をしているらしかった。
わずかな喉のかわきを覚えて、彼はゆっくりと目蓋を押し上げた。
緑が見えた。
観葉植物だ。
そしてキッチンらしき空間と、ダイニングテーブル。
身じろぎをすると、自分が何かやわらかい素材に身を預けているのが分かった。
ここはどこだろう。
自宅ではないことは確かだ。
ユグドラシルでもない。
それに自分はどうしてこんなところにいるのだろう。
さっきも、同じようなことを考えていた気がする。
…『さっき』?
「う…」
同じ姿勢を続けていたのか関節がぎしりと軋む。
それを堪えて、だるい体を肘で支えてわずかに身を起こす。
頭が重く、手のひらで支えながら考えを巡らしても自分が何故見知らぬ場所にいるのか、その理由を『思い出す』ことは『出来なかった』。
薄く靄がかかったような感じがして、うまく記憶を手繰ることができない。
自身の記憶と格闘していると、きいと戸の開く音がして真理也が姿を見せた。
全てに興味がないような表情だったが、目を覚ました派出須に目をとめると、口元にすうっと笑みを浮かべた。
「起きたか、逸人」
「真理也…?」
「喉は?渇いてないか?」
「ここは、お前の家なのか…?」
そう問いかけると、ああと笑みを返し、キッチンの奥へと消える。
冷蔵庫を開ける音。
「外で見掛けて、ふらふらしてたから連れてきた。ひどい熱だったぞ」
「熱…」
頭がぼうっとするのはそのせいだったのか。
しかし、いつの間に風邪などひいたのだろう。
それに、どうして自分が外にいたのか、それが分からない。
持てるか、と水の注がれたグラスを手渡される。
「すまない…」
「遠慮しないで休んでいくといい。無理はするな」
「ああ…すまないな」
派出須がそう言うと、真理也は低く笑って、自身もダイニングの椅子に腰かけ、水を飲んだ。
「ソレは口癖か?」
「!」
愉しげに笑う真理也にそう言われ、反射的に再び『すまない』と言いかけて、派出須は苦笑を浮かべた。
「コーヒーでも淹れよう。アイスでいいか?」
「ああ…ありがとう」

2杯目のアイスコーヒーの中で溶けた氷がグラスとぶつかり、からりと涼やかな音を立てた。
あれから2人はそれぞれの仕事や現在の環境について、お互いに語った。
溶けた氷を見つめ、派出須は壁にかけてあった時計に目を向ける。
「そろそろ帰らないと…真理也、今日はありがとう」
すると、真理也はそれを待ち構えていたかのように派出須に問うた。
「どこへ?」
静謐な水面に小石を投ずるように。
「…え?」
その心臓へ静かに杭を打つように。
「どこへ帰るんだ?逸人」
「どこって、家に…」
「その家を俺は知らないから…教えてくれないか?…逸人、お前は…どこに、帰るんだ?」
ひとつひとつ言葉をゆっくりと紡ぐそれは、まるで暗示のように、既に用意されている何らかの答えを導こうとするような問いかけだった。
ああ、そんなことか、と問われたことについて口にしようとして、派出須は凍りつく。
「…えっ…?」
頭の中が真っ白になるとはまさしくこのことだった。
「どうしたんだ逸人?」
素知らぬ風情で真理也は問いかける。
訊かずとも答えは分かっている。
それは、自分が用意した答えだ。
そしてこれはスタート地点。
「…僕は、どこに帰るんだ…?」
真理也の口元に、これ以上ないというほどに愉しげな笑みが広がった。


夕闇が、赤から青へと変わろうとしていた。
常伏町の外れ、閑静な住宅街のマンションの前で経一はバイクを停めた。
真理也の外見は非常に目立つ。
真理也だけではない。
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