作品
□眠れる森の恋人たち
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螢のもとを郁が訪れたのは、陽射しも大人しくなる午后四時だった。
裏庭に面したテラスで椅子に掛けて手紙を書いていた螢は、便箋を折り畳み、郁に気まずげに笑った。
郁は詮索しなかった。目零したというわけではなく、踏み込のは不躾であると弁えているのだ。
身仕度を促すと螢は一旦、背後の硝子扉から家へ入り、若草色の夏羽織りを着けて戻ってきた。裏庭を囲む煉瓦の塀に絡まった凌霽葛の花弁が、零れてふわりと舞い上がった。
夏の盛りも過ぎ、毎日のように澄んだ穹窿が広がっている。道端では半化粧が青い風に揺られた。
螢の浦柳な躰はこれっぽっちも日焼けずに生白かった。手首には青い静脈が浮き、大きな瞳の虹彩も茶色く、手足は細い。色素の薄い容貌は、その淡さが却って目を惹くとよく云われているが、螢にはある種の欠落感だった。
長じた現在では季節の変わり目以外の体調は余りこわくはない。ただ、活発に動くことは儘ならない。
蝉の遠鳴りが、螢に不在の幼馴染みを想わせた。夏の半分を遠方の親戚のもとで過ごすことになっている彼は、自分とは違い、浅黒い肌をした活発な青年だ。
幼い頃、躰の為に籠りがちで、ろくに友人もいなかった。彼に手を引かれ、何度か外へ繰り出したものだ。
彼は少ない口数とは裏腹に、つい誰にも迷惑を掛けまいと痩せ我慢しようとする螢に、細やかに世話を焼いてくれたりもした友だ。
彼がいないと、十六才の螢の夏休みは無聊なばかりであった。
鄙びた一帯は見るべきものもない。青々とした地平線が広がり、風車が緩やかに回るような場処だ。牧歌的といえばそうかもしれないが、暇といえばそれまでだ。高校も少ないバスで一時間かけて通学するぐらいの、僻陬だ。
只、閑かなのは螢にとっては有り難いことだった。
郁はそんな無為に過ごす螢を見兼ねてか、度々訪ねてくるようになった。
不思議と色々な話題を持つ彼は、裏庭で過ごしてばかり螢のいい相手になってくれる。
今日の二人は、白く燥いた道を、会話をしながら捷遥していた。
郁は饒舌という訳ではない。だがその喋りは淡々と巧みだった。
茫洋としているが、物事はすんなりこなす。それなりに端整な容姿と、品性は良いといえた。
やがて二人は、白詰草が埋め尽す土手の斜面に腰を降ろした。空気は夕の近付きを感じさせる匂いがする。
土手を境に、南には川が、北には広大な森が横たわっている。
川の片端は没日を迎えようと朱みを帯びている。川面は時折、白く煌めいた。
森にの前には有刺鉄線が張り巡らされているのが、遠見によく分かる。二人が座ったのは北側だ。
「入れない場処って、却って入ってみたくならないかい、」
郁の問いが、森の有刺鉄線のことを指しているのに、螢は気付くのがやや遅れた。
「そうだよね」
螢は自分の鈍さが、少し恥かしかった。郁が僅かに苦笑した。その怜悧なまなざしは、憬れと同時に自身の劣等感を招いた。
螢は自らの話題があまり無く、ひとり気まずくなり郁から顔を逸した。
少しして向き直ると、郁の姿がなかった。
螢は慌てて、立ち上がり辺りを見渡した。郁は斜面の下までおりていた。
「郁、」
声を掛けるも、郁はこちらを一瞥しただけで何処へともなく黙って歩いていってしまう。
螢は郁を小走りで追った。何度も呼び掛けたが郁は一切背を返さない。
次第に不安が募ってきたその時、螢は森の中にいた。
あまりにも唐突なことに、来た道さえもはっきりと覚えがなかった。郁の姿も見えない。
梢が幾重にも重なり、空を包んでいる。地には草棘が密生し、サンダルを履いた足許はむず痒い。木洩れ陽が、葉群を透かして繊い糸をひいて蔭へ落ちる。
草樹の匂いは強く、螢は口許を軽く手で押えながら勘のままに歩を進めた。
時折強く郁の名を呼ぶが、彼の姿は見当たらなかった。葉擦れの音が寂しく響き渡る。鳥の鳴き交わす聲もなく、暗い葉蔭の中ただ森閑としていた。
螢には何も見当がなく、心細い。
どのくらい歩いただろうか。螢は悪寒を覚えた。
密集した樹々がひとつの暗い碧色に融けあって見えることに、疲れを自覚した。風に揺れ動く影さえ神経に障る。眼の裏が重い。
郁がいなくなっただけでなく、迷子という難に遭って困憊しかけたその時、後ろから夏羽織りを引かれ転倒した。反動はあったのに、まるで身を擦り抜けたように夏羽織りは奪われた。
幸い足許に朽葉が積もっていて、倒れた衝撃は和らいだものの、夏羽織りを奪った跫音が走りさっていく。
螢は起き上がって服についた葉を払らい落した。
「郁なのか、」
恐る恐る発した言葉は、末尾から弱々しく森にとけていく。愁眉の上で、木洩れ陽が前髪を蜜色に染めた。
螢は跫音の行方を追った。狭い木の間を潜ったり、身を屈めたりしながら追うも、跫音の主の姿を捉えられないおろか、音自体が逃げ水のように近付いたかと思えば遠のく。
これは、郁に担がれているに違いない。螢はそう願っていた。
蔓延る野茨を越えて、壁のように絡まって立ちはだかった枝を押し退け、その先へ進んだ。
次の瞬間、待構えていた急斜面を螢は滑り落ちていた。
枯れ葉が纏わりつく。 立ちなおった時、十歩ほど先に郁がぽつんと立っていた。
螢は一瞬怯むも、冷静さを戻して郁を呼ぶ。
だが郁は塑像になってしまったように応えなかった。螢が一歩を踏み出すと、打って響くように動きがあった。
背中に隠していた左手を突出すと、燭台を見せてきたのだ。華やかな黄金色の蝋燭が付いたそれを、螢はつい、物珍しげに観察した。
右手の手招きに、螢はふらり彼の方へ誘われた。
円錐の先端を切ったような地形の足許は、萎びた植物や枯れ葉の海だ。それは螢を遮ることなく、容易く渡らせた。
螢が眼前まで来ると、郁の薄い脣が不自然に微笑んだ。
蝋燭をそっと、螢へと近付ける。芯に光が瞬いた。
「螢、起きて」
気が付くと螢は、土手でだらしなく寝転んでいた。
大きなが炎がある。 いや、あれは空の炎だ。
「夢なのか」
隣りで膝を抱えて座っている郁がいた。
螢は安堵していた。いま隣りにいる郁の表情は温みがある。夢でみた郁の微笑みは仮面のようだった。
しかし夢は妙な余韻を頭に響かせている。
螢は一度目を伏せて呼吸を整えた。長い睫が頬に影を落した。
もう黄昏時だ。東からは洋墨をこぼしたように藍色がせり上がって、鴾色の天は西へ沈んでゆく。
「そろそろ帰ろうか」
郁も風が冷たくなってきたのを気にしてか、そう呟いて腰を上げた。
立ち上がった螢の肩に郁が若草色の夏羽織りを掛けた。
「早く帰ろう」
螢はいつの間に郁の手に夏羽織りがいったのか分からず、寒気を感じた。
「まさか土手で眠りだすとは思わなかったよ」
郁の言葉に、螢は取り敢えず含羞んだ。
その夜、螢はなかなか眠れなかった。
何度も寝返りを打つ。麻の敷布は乾いた衣擦れを立て、木製の寝台は苦しげに軋んだ。
躰をじれったい掻痒の感に襲われ、投げ出した手足は落ち着かない。
螢は寝台を降りることにした。彼の部屋は二階にある。跫音を立てぬように静かに、一階へと降りた。
出窓にあるばら柄の置き洋燈を点して、階段を降りてすぐ隣に、両親の寝室がある。両親は寝入っているようで、螢はすんなりとリビングに向かえた。
裏庭のテラスに繋がる硝子扉がある、清楚な白い壁のリビングだ。
不用心にも硝子扉の窓掛けを閉め忘れている。
硝子扉の向こうの藍の夜では、爪の形をした月が煌きを零らせ、キッチンとひと繋がりの小さなリビングには滄い陰影が刻まれた。
蛋白石のような螢の肌は、ますます生気を失ってみえた。壁にせり上がった己の形影が、こちらを見下ろしている。
夜気は室内まで沁み入り、寝台の上よりも心地よい。流しへ回り込むと、水で喉を潤した。
睡り切れない頭のまま立ち尽くし、螢の足はやおら硝子扉へ向かった。窓掛けを閉めようとして、手の動きが止まる。
裏庭の薔薇の木は眠っている。芝生は夜露に濡れて冷えていた。
昼間に手紙を書いたテラス、外郭に絡まって外まで溢れた凌霄葛、全て澄んだ短夜の底に静まっている。
硝子に額を押し付けて、食い入るよいに裏庭を見つめていた螢は、不穏な音を聞いた。
薄氷を叩くように、夜に罅が生じた。月光によって、それは一層、冷たく映えた。
螢は思わず飛びのいた。卓に肘を支え、枝分かれして硝子に生まれていく罅を暫く見つめていた。
どう二階へ戻ったかは覚えていない。
少なくとも、硝子が粉々に砕けたりする様を見る前に戻ったのは確かだ。
螢は寝台に半身を預け、葉脈ほども生えた罅を脳裏から消そうと必死になった。
そんな彼に、睡りは優しく救いの手を伸ばす。螢は躊躇せずそれを受け容れた。まるであたたかい泉のように、敷布は先程の夜気よりも心地よく感じられた。
一切の思考を放棄できるのは嬉しかった。さっきの水よりも、安らぎに螢は渇いた。
寝台に身を横たえると、白い瞼を閉ざし、深々と敷布へ沈んでいった。