作品

□金魚が消えた夏
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 暮れになると、家々の軒下には提燈が早くも点り、山々の残照には晩霞が棚引いた。
 八雲(やくも)は弾む気持ちで、境内を貫く石畳の路を駆けた。
 夏祭の日は心が踊る。
 この日に備え八雲が選んだ甚平は、水浅葱に紅い金魚が泳ぐものだ。
 家を出る前に、祖母は甚平を褒めた。逆に母は、渡した小遣いを大事に使うようにと何度もくどくど云っていた。
 本堂から漂う匂いに誘われ、八雲の足は早まる。路を挟む背高い夏木立の随にある月はまだ薄い。
 張り切ると待ち合わせの時間を、予定よりずっと早く集合場所に来てしまう八雲は、今回も同じ事をしてしまった。
 まだ祭に人は多くなかった。本堂正面の階段に腰かける。連なる出店の名前に、唾を呑んだ。広大な境内で行われる祭は、県内でも有数の、規模の大きなものだ。
 八雲は早く来てしまったことを後悔した。腹が鳴ってくる。だが友人たちが来るより先に何か口にするのは憚れた。
 八雲は肩越しに振り向き、賽銭箱を見た。お参りは皆が集合してから。
 時間を潰せるようなことがこれといってない。
 側で小銭が鳴った。向き直ると目の前で、八雲ぐらいの少年が、腰を屈めて落としてしまった小銭を拾い集めていた。
 そのうちのひとつは段を跳ねて路へと転がる。八雲は小走りでそれを拾い上げに行き、少年に差し出した。
「これも落としたよ」
 少年が振り向いた。透けるような肌と、大きな睛が惹く少年だ。櫻色の口唇に人懐こい笑みを浮べ、受け取り礼を云う。刺繍の入った蒲口に小銭を戻した。
 彼も甚平姿だ。濃紺の質素なもので、妙に似合っている。
 少年は八雲を何故かまじまじと見た後、訊いてきた。
「ねえ、一緒に祭を見ないかい」
 八雲としては構わなかった。人数が増えれば楽しいと思っているからだ。
「ぼくとしては構わないけど、いま友達を待っていて、」
「いや、おれと今すぐ行こうよ」
 少年は八雲の言葉を遮った。八雲が後込み仕掛けた時、お腹が鳴った。
 少年はくすくすと笑って、八雲の手を取った。
「お腹空いてるんだろう、行こうよ」
 八雲は頷いてしまった。少年の強引さに押されたわけでもあり、空腹に勝てなかった意味である。
 頷きつつ、八雲は頭ではその内友人たちに逢うだろうからその時に事情を説明すればいいと考えた。
 少年と話し合い、たこ焼きと紅玉のような艶めく林檎飴を買って、境内の片隅にある池の側で食べることにした。
 花崗岩のベンチに座り、たこ焼をいただく。水面は静かに、群青の濃くなっていく空と月を映している。
 二人の間には何気ない会話が弾んだ。
 少年はたこ焼をまるまる口に放りこみ、熱そうに息を吹く。
 たこ焼を食べ終えてすぐ、少年は林檎飴の包みを解いた。八雲もそれにならう。束の間の温い風が、此処より奥にある雑木林を揺らし、葉擦れが騒いだ。
「おれさ、金魚が欲しいんだ」
 少年が唐突に漏らした。林檎飴を、なめるというよりも噛み付いている。
「金魚掬いかい、いいよ、やろう」
「そうじゃなくて、」
 傍の樹に掛かった提燈の橙のひかりが少年の細い輪郭や項を照した。
「その金魚を頂戴」
 少年が指したのは、八雲の甚平の柄の金魚だった。
「面白い冗談を云うね」
「おれは本気さ」
 少年の指先が八雲の右肩を泳ぐ金魚に触れた。
 そして、金魚は布地から浮上ってしまった。
 八雲は開いた口が塞がらなかった。金魚は少年の指先の上で漂っている。
「この金魚なら、すごく思い出になる」
「きみ、」
「金魚掬いは何度もやっているからね」
 その時、突風が吹き、たくさんの木の葉が宙を激しく舞った。
 風は雑木林の闇から吹き込んでいる。
 少年の姿は消えていた。顔を掠める木の葉に、八雲は顔を腕で庇った。
 何が起こったか解らず、八雲は力一杯少年を呼んだが、あらぶる風音に声はかきけされた。


 鐘の音が頭上から耳朶を打つ。
「おい、八雲」
友人の一人が八雲に声を掛ける。
「え、」
 八雲は辺りを見回した。祭囃子、出店、賑やかな喧騒がある。
「なにぼけっとしてるんだよ」
 別の友人が云った。
「…みんないつの間にきたの」
 八雲の問いかけに友人たちは顔をしかめた。
「たった今ここで集合して、お参りしようってことになっただろ」
 早口にそう云った友人は呆れていた。
「嗚呼、そうか」
 前でお参りを終えた客が去ると、八雲たち四人は賽銭箱の前で各々の財布を開ける。
「あっ」
八雲は空っぽの財布を見て、泡を食らった。
「どうした」
「ごめん、お金忘れたからすぐ取りに行ってくる。先にみんなで楽しんでて」
 八雲は恥ずかしさで逃げるように人混みを駆け出した。空腹に負けて、皆より先に食べてしまっていたのだった。母がくれた僅かな小遣いは簡単に無くなった。
 家に帰り、母に事情を説明して、なんとかもう一度小遣いをくれないかと懇願するが、母はにべもなく、逆に痛いところを突かれて、閉口した。
 とぼとぼと自室に引き返し、八雲は甚平を脱いで私服に着替えた。
 ふいに脱いだ甚平に違和感を感じ広げてよく見てみた。水浅葱の布地の所々に金魚が泳ぐ甚平だ。その右肩辺りには金魚がおらず、ぽっかりと寂しく浮いていた。
 その右肩部分に触れた時、八雲は皆が来る前にお金を使った理由が空腹だけではなかったことを思い出した。
 八雲は茶の間へ走って向かった。台所の前を通ったところで母が、廊下を走るなと怒ったが聞こえないふりをした。
 唐紙を強く開けると、テレビを見ていた祖母は穏やかな声で八雲を注意した。
 八雲は手にしている甚平の肩の部分を示しながら、祭であったことを話した。
 あの母にこんな話をしても相手にされないから、祖母ならちゃんと聞いてくれるはずだと信じた。
 話し終えると祖母はただ頷き、八雲の頭を撫でた。
 それは不思議だね。祖母はそう一言しか云わなかったが、表情を綻ばせていた。分かってくれたのかくれなかったのか曖昧な印象で、なんとももどかしかった。
 自室に戻り、消えた金魚の今頃を思いながら甚平をハンガーに掛けた。
 それ以来八雲は、待ち合わせ場所には早く行き過ぎないようにしている。



 

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