作品

□蓮は夢をみる
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 ハスの開く音が、聞こえたような気がした。
 魚河岸(うおがし)は竹箒を動かす手を止めると、凋落した葉を掃き溜めた蔵の陰から出た。
 足は自然と表門へ向いた。
 先程聞こえた音の源を探そうとしたのだが、魚河岸家にハスが無いことは分かっている。
 その前に、ハスの開く音など聞こえるわけがない。
 表門から落ちる濃い影の中に、蓮(れん)がいた。
 魚河岸は腕時計を確認した。
 午前十一時。一時間も早い。予定では、友人は十二時にやってくるはずだ。
 中天の太陽が、強く照り付ける。汗が頬を流れた。 白洲が熱気たち、景色を歪めている。蓮のかたちさえ、曖昧になりそうだった。
「蓮、だいぶ早かったな」
 蓮は影の中で俯いていた。
 近付こうとした魚河岸は、蓮の呟きに足を止めた。
「久し振りです。また逢えて嬉しいです」

 久し振りなどと、云われる覚えはなかった。最後にあったのは、ほんの三日前だ。
 ハスの音が、また聞こえた。
 友人は影も形もなくなっていた。
 魚河岸は瞼を擦りながら、蔵の方に戻った。



 正午、予定通りに蓮はやってきた。荷物を詰めた旅行鞄を引いて、涼しげな早緑のパーカー姿だ。
 はたから見ればこれから旅行にでも行くのかと思えるが、実は夏休みを利用して三泊四日、蓮は魚河岸家に世話になる。
 二人で協力して、宿題を一気に片付ける寸法だ。
「お前、十一時頃に一度来なかったか?」
「いいや、来てないよ」
 部屋の隅に荷物を置いて、蓮は云い返した。
「来るわけないじゃないか、何云ってるんだ。暑すぎてまぼろしでも見たのかい?」
 猫のように大きな蓮の瞳は、我の強い彼の性格を強調している。今もそこから、魚河岸を小馬鹿にし、愛らしくとも小生意気な視線を寄越していた。
「またそんなもの着てるの」
 魚河岸は紺地に麻の葉模様の作務衣姿だった。
 程よく引き締まった腕で様になっていたが、黒縁の眼鏡が小洒落ていて、不釣り合いな要素だ。
 作務衣は父が格式張っている故に着ているのであり、魚河岸も外にでれば学生らしい振る舞いもする。
「親父が言うんだから仕方がない」
「相変わらずだね」
 魚河岸の部屋は家の裏手に面し、縁側もあり、雄大な裏庭を眺められる位置にある。裏庭はそのまま山に続いているが、途中で金網に区切られている。
「なんの匂いだい」
「泰山木だよ。この季節になると、いつもこうなんだ」
 裏庭は、唯見る泰山木の林だ。見ごろを迎えて大きな白い花をつけ、敷地を濃やかな薫りで満たす。
 母の呼ぶ声がした。
「お母さんが呼んでるよ」
「はいはい」
 魚河岸は厨房で、母から昼食を訊かれ、素麺を頼んだ。
 戻ってくると、蓮の姿がなかった。
 彼の早緑の背中が、泰山木の間に潜っていくのを見た。
 庭履きは蓮が履いていってしまったようだ。魚河岸は裸足で彼を追う。
「おい蓮、どうしたんだ?」
 林の土は湿り気を帯び、魚河岸の足裏にはたちまち土が付着する。
 白い花弁は青嵐にふかれて、虚空に渦巻いては舞い落ちる。静かに積もる、真夏の牡丹雪だった。
 蓮は離れの前にいた。
「どうしたんだよお前」
 魚河岸は背後から、蓮の肩を叩いた。彼は弾かれたように振り向いて、今さっきまで心ここにあらずだったと云う具合だ。蓮は云った。
「いや、なんだか……」
 その先を、彼は云い澱む。
 泰山木に囲まれた離れは平屋で、狭い芝生と濡縁のある、小さなものだ。
 文字通りの矮小さで、今では使うものもいない。いくら厳格な父も、息子を此処に缶詰にして勉強をさせたりはしなかった。
 離れの戸が、僅かに開いている。
「おかしいな、いつもは鍵を掛けているはずなのに」
 蓮が勝手に戸を開けた。
 埃と、黴のにおいが鼻をつく。変色し毛羽立った畳が、長年の放置を物語る。
 簡素な違い棚と床の間がしつらえられた、十畳程の間だ。更に奥の襖の先には、小さな間がもうひとつあるようだ。
 崩れた蒲団に、萌葱と蝦茶の二着の古い浴衣が折り重なっていて、山の朽ちた綾錦を思わせた。棚の茶器一式といい、生活の跡は垣間見える。
 離れは古いだけで、ふたりの少年の興をそそらなかった。
「庭って、むかし沼だったのを埋め立てて作ったんでしょ」
 ハスの音がした。
 魚河岸はそんなことは初耳だった。
「そんなの、初めて聞いたぞ」
「えっ?」
 蓮は、猫のような瞳をもっと丸くする。
「だれから聞いたんだ?」
「さぁ……君から?」
 勿論、魚河岸に云った覚えはない。



 母の趣向で、夏場の食器はびいどろ製で統一される。食器は色とりどりの影を卓に伸ばす。 
 昼食の素麺を平らげると、ふたりは縁側に寝転んだ。
 嫩葉の青い影が、縁側へ落ちる。水仙を描いた風鈴はりんと鳴る。雲はほとんど動かす、仰ぐ空は真っ青だった。
 二人の間にこれといった会話は無く、用意した麦茶だけが減っていく。
「智(さとる)、そろそろ始めようよ」
 魚河岸は生返事をして、蓮を呆れさせた。
「夏バテぎみというか、どうにもやる気がしない」
 魚河岸がそう漏らすものだから、蓮は旅行鞄からあるものを出してきて見せた。
「花火、持ってきたんだ。最後の夜に二人でやろう」
 二人が部屋に入ろうとすると、縁側の角を曲がって、父がやってきた。
「智、宿題は?」
「これからです」
「そうか」
 厳格かつ炯眼を持つ父を、魚河岸はこの歳になって、欝陶しいものなのだと感じていた。しかも旧弊なところがあるときた。
 だが蓮のいる前で、露骨に嫌悪を表せられない。
 父の小さな眼が、黒目だけが、魚河岸の肩越しに蓮を見遣った気がした。
 蓮が無言の会釈をする。
 魚河岸は知っている。父は何故か、この友人をこころよく思ってないのだ。





 一日目の終りは早く感じた。
 魚河岸の部屋に二組の蒲団が敷かれ、蓮は先に眠りに入った。
 置き洋燈の明りで暫く読書していた魚河岸も、瞼が重くなるのを感じて、床に就いた。
 障子を透かして月影が射す。蓮の寝息は聞こえない。
 しっとりとした漆黒の夜。魚河岸の意識は眠りの際にあれど、耳は敏感に働いた。
 赤児をあやすためのような、拍子を打った音がする。
 拍子は魚河岸を安気にさせるが、眠りに落ちようとした瞬間、彼はそれがハスの咲く音だと気付いてしまった。
 両目が、がばッと開かれる。枕元に、聳える影があった。
「蓮か?」
 月影が青白く縁取った姿は、その輪郭から蓮だと感じた。夜の闇と、裸眼で、判断が難い。
 魚河岸が枕元の眼鏡を掛けようとすると、影が動いた。影は掛布を捲りあげると、魚河岸の蒲団の中へと入ってきた。
 間近に来て、見慣れた濃い茶髪と小柄な体格で蓮だと判った。
 蓮は白い額を、魚河岸の首筋へと埋め、腕を回してくる。
「どうしたんだ」
 云いかけて、魚河岸は隣りの蒲団で、後頭部を見せて横たわる蓮の姿を認めた。
 息を呑んで、魚河岸は同じ蒲団の彼を確かめようとしたが、既にいるのは己ひとりだけだ。





「智、伊部(いべ)さんと云う子が来ているわよ」
 母にいきなり云われた。
 二日目の、昼時だった。
 昼食を終えて、今まさに宿題に取り掛かろうとしたところで、魚河岸は舌打ちした。
 蓮は伊部と聞いて色々と察したらしい、無言で同情の視線を送っている。
 かつて摩耶香(まやか)を撥ね除けたことは、蓮にだけ話したことだ。
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