作品

□蛇ノ目傘
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 正午だと云うのに仄暗く、空は厚い雲が立ちこめている。
 まもなく雨が降り出した。
 塩野清澄(しおのきよすみ)は、傘の取り間違いに気付いた。
 祖母に頼まれた和菓子屋の買い物の、帰り道だ。
 広げた傘は持ってきたはずのビニール製ではなく、紺色の蛇の目傘だった。
 竹で出来た持ち手の触りや、重さの違いといい、取り違えた己を少々疑いたい。
 まばらな雨はすぐに勢いを増してきた。蛇の目傘が油紙によって雨を受け流すのだと、初めて知った。
 清澄は毎年の梅雨になると母に連れられ、下町にある、母方の祖母の実家へと顔を出している。
 祖母の家は年季の入った木造の大きな平屋だ。外観とは裏腹に、内装な綺麗に維持されている。案外居心地は良く、これといった支障はない。
 和菓子は好まない清澄だが、祖母に頼まれた買い物代の余りは、いつも財布に舞い込んでくる。中学生の彼には有り難い。
 暇つぶしと小遣いの為に、彼は今日の懶(ものう)げな曇天のもとへ繰り出していた。
 清澄が幼い頃、いや、それ以前から、町の景観は変らない。
 中心街は目まぐるしく発展し、高いビルが比肩しているが、下町一帯は時分が違えたように変わらない。
 特異な空気があり、木造やトタンが目立つ家々の景色は、都会で暮らす清澄をいつも、別世界へ迷い込んだように錯覚させた。
 桟の付いた窓、軒下に寄り固まった鉢の、野放図に絡まる植物。
 板塀の廂合(ひあわい)を抜け、水路に渡した石板の上を通り、清澄は帰路につく。
 雨脚は遅そうだ。ここ数日、よくない天気が続いている。
 清澄は油紙の耐久がどの程のものか、心配になった。
 彼は今すぐ、和菓子屋へ引き返す気がしなかった。
 雨が運ぶ不快な湿気をさっそく受けて、戻る気持ちが起きないのだ。
 晴れたら、傘を店の傘立てへ返しに行けばいいと、野暮なことを考えていた。
 土瀝青(アスファルト)にたつ水煙を吸い、ズボンの裾は重くなる。走ることにした。
 息を切らして家に着いた清澄を待っていたのは、無常にも開かない玄関だった。
「母さん、おばあちゃん」
 戸を叩けど、反応は無い。呼び鈴も同じだ。
 祖父は出かけてまだ帰りそうにはない。雨音のせいで聞こえていないのかと思い、勝手口へまわり込もうした。
「どちら様ですか」
 思わず肩が飛び上がった。
 いつの間にか、若い女が清澄の背後にいた。彼女は首を傾げてこちらを見ている。
「うちに何かご用ですか」
 その先口は本来、清澄のものであるというのに、女が当然の如く訊いてくるので、彼は面喰らった
 女は、鹿の子暈しをいれた菫色の小袖に、蝦茶の帯をして、黒い傘を差している。淡く楚々とした装いが合い、柳腰の線が柔らかく表れている。
 清澄は相手に覚えはない。うっかり家を間違えたのかと不安が過ぎる。しかし、この冠木門(かぶきもん)や鉄製の軒燈は、彼がよく知るものだ。
 表札は塀に付いてるが、清澄の位置からは確認できない。が、「塩野」に間違いないはずなのだ。
「どこの子かしら。君、寒くないの?」
 女が近付いてくる。
 清澄は肩を強張らせた。
 手巾を懐から出した女は、清澄の濡れた前髪を拭いた。
 着物から、静謐な香が匂う。戸惑う清澄を見て、はッとして女は謝った。
「いきなりごめんなさいね、濡れていたものだから」
「いえ…」
 黒目がちの大きな瞳が、蛇の目傘をちらちらと見遣る。
 清澄はひとこと礼を云うと、女の脇を擦り抜けて駆けていった。
 女は引き止めようとしたが、彼は振り向かない。
 今はただこの小恥ずかしいような気持ちを振りほどきたかった。



 走り疲れた清澄は、狭い公園のブランコに腰駆けていた。
 尻が多少濡れるのは我慢して、蛇の目傘を差したまま、小さくブランコに揺られた。
 顔から火が出るような恥かしさの余韻はまだある。
 それに、家を間違えた可能性とそれを否定する気持ちが攻めぎあい、なんとも、もどかしい。
 見知らぬ女に前髪を拭かれたのには、あわてた。
 他人に母親のように世話をされるのは、清澄の年頃では複雑だ。
 あの家は塩野家のはずだ。もう一度あの家へ戻るしかないが、和菓子が入った袋を膝に乗せ、清澄は気がすすまなかった。
 ブランコと滑り台しかない公園には、隅にばかり生えた羊歯(しだ)や雑草が、荒れっぽく湿った陰気を余計に漂わせる。水溜まりは磨り玻璃のよう。
 仄青い雲を開いて薄明かりが現れるのは、まだ先になりそうだ。
 祖母の家以外には、此処ら一帯に身を休める場処はない。
 清澄は意を決して戻ることにした。いつまでも寒い中にはいられない。表札を確認すればいい。またあの女に逢ったらそれまでだが。
 公園を出た清澄は、後方から近付いてくる靴音に振り向いた。
 嫌な予感とは当たるらしい。やってきた男は清澄の手首を掴んで怒鳴りつけた。
「直純(なおすみ)、こんな所で何をやっているんだ」
 清澄は驚いてから、すぐに拍子抜けした。
 明らかに、相手は人違いをしている。
 男は傘を差しておらず、衣服はしとどに濡れ、漆黒の前髪も浅黒い額に張り付いている。凛々しい眉と控え目な骨格、しかし引き締まった身体が、男らしさとしなやかの調和を持っている。
「全く、和菓子屋に行くと行って帰って来ないと思ったら、道草など食って。静香(しずか)も探しに行ったのだぞ」
 男に射竦められ、清澄は人違いであるのに、本当に怒られている気がしてならず萎縮した。
 だが、和菓子屋に行ったと云うのだけは宣(むべ)だ。奇妙な偶然を感じる。
「迷惑ばかり掛けて、いい加減にしろ」
「あの、人違いでは……」
「なに?」
 相手が息巻く前に正す。
「僕は違います。よく見て下さい。あなたの探している直純さんではありません」
 男は目を丸くして、清澄を天辺から爪先まで確認した。
「すまない……人違いだったようだ」
 手首を掴んでいだ手が離れて、男は詫びた。
「いえ、では……」
「直潔(なおきよ)さん」
 その時、家の前で逢ったあの着物の女が、こちらにやってきた。
「静香か」
 男は女の方を向いた。
「どうなさいましたの?あら、君は……」
 男の云う静香とは、彼女のことだった。男の方の名は直潔と云うようだ。
「いや、直純と間違えてしまってね」
「似ているけど違いますよ」
 静香は清澄に詫びた。黒い傘に直潔を入れて、清澄にそうしたように彼の前髪を手巾で拭った。
「直潔さんたら、傘も差さないで」
「大丈夫だと思ったんだよ」
「まあ」
 清澄はさっさと家へ向いたくて、浮き足がそわそわした。男女の交わされた眼差しから、その間柄を読むことなど十五の彼にも出来る。
「ところで静香、お前この子を知ってるのか」
「ええ、さっき家の前に……」
 静香が言い終わらぬうちに、清澄は辞して走り去っていた。
 忘れようとしていたばかりの、前髪を拭われた小恥ずかしさが甦り、全力で家へ向かって疾走した。
 だがやはり、玄関は開かずだ。勝手口も窓も鍵が掛かっている。
 おもての表札は確かに「塩野」であった。祖母の塩野家だ。幾度も念入りに確認したのだ。
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