作品
□花茨
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修司(しゅうじ)の久し振りの休暇を台無しにしたのは、近くに住む従兄弟のツカサからの電話だった。
ツカサは、急用が出来たから家の花屋の配達を代わりに行なってほしいと云うのだ。頼む側の態度としては軽すぎる物言いに、修司は顔を顰めた。
花屋の経営者である初老の夫婦、ツカサの両親であるが、息子である彼が親の用事の際に店を任されることは少なくない。
斑気な従兄弟のことだ、親の頼みなど反故にして、遊ぶ約束を優先させたに違いない。
……サボる気か。
電話口で声を低くして問うと、肯定してるも当然の笑いが返ってきた。
……修司、休みと言ってもどうせ暇なんだろう。
痛いところを突かれては返す言葉もなく、修司は花屋へと向かうことにした。なんだかんだ云って、自分は従兄弟に甘い訳でもあったのだが。
修司がやってくるなり満面の笑みを浮かべたツカサは、店のエプロンを修司に着せると、すぐに軽トラックの、覆いの付いた荷台に花を積む作業に入った。バケツに入れられ、箱の中に並べられた花は結構な量で、個人的な注文ではないことが修司にもみてとれる。
……朝一にね、急な注文だったのよ。しかしこのウチはそういう時ばかりは、何故か手の回りが早いのが自慢なのさ。
悪びれた様子もなく語るツカサに、修司はあきれた。
ツカサは配達先の住所を書いたメモや、伝票やら小銭の入ったケースを渡して一言、宜しく、といって去っていこうとする。修司はツカサの襟を掴まえた。
……宜しく、だけじゃあないだろ。もっと云うことあるんじゃないか。
……花を渡して、勘定して、伝票に印鑑貰って、それでいい。分かったな。
ツカサは飄々と鼻歌を歌いながら去っていった。修司は絶句した。
溜息を吐き、メモの住所を確認した。だが見ただけではいまいちピンとこなかった。
たまに名を聞くぐらいで、一度も立ち寄ったことない界隈だ。配達先の氏名は「畔倉(あぜくら)」だ。
軽トラックを運転し、電柱や看板の表記を頼りに住所の指す場処へ辿り着いた修司だったが、其れらしい建物は見当たらない。ツカサは詳しいことを言わなかったが、注文の量からして施設か何かの大きな建物であることは予想できた。
修司は一度停車し、軽トラックを降りてみた。一帯は高地で、急な曲がりや勾配、歩行者用の階段を多く見掛けるも、閑静とした普通の住宅街だ。午后の陽射しと、空気の緩やかな光景だった。
軒並みを覗いていた修司は、ニ軒の民家の間の狭い通路があることに気付いた。遠目からは目立たない其の奥にある階段を若しやと思い、其処へ足を踏み入れた。
少し進むと狭かった階段はやや幅を広げ、横たわる林を貫いて上へ上へと伸びている。
途の片側には枝垂れ桜が連なる。垂れ下がる花の薄紅い色合いが霞のようにゆらめく。
やがて大きな白い塀が忽然と現れ、褪せた唐草の格子扉に突き当たった。表札は無く、だが呼び鈴はぽつんと脇の塀に備えてあった。簡素な構えだ。
塀の向こうは、奥まるにつれて、喬木の枝が密集し鬱蒼として、その下蔭の濃さで内部がよく伺えない。
呼び鈴を押して、修司は緊張した面持ちでひとつ咳払いした。
……どちらさまでしょうか。
すぐに、雑音に混って男の声がした。
……××生花店ですが、畔倉さんのお宅でしょうか。
次の返事までには僅かな間があった。
……ええ、そうです。少々御待ち下さい。いまそちらに参りますので。
暫くすると、若い男が一人、小走りでやってきた。男の、濃緑の着流しに橡色の細帯という、どこか時代錯誤を感じさせる装いに修司は一瞬戸惑った。
顔だけ見れば歳は修司と近そうだというのに、身なりひとつで遥かに老成して見える。修司は彼の足許、緋色を少し織り込んだ濃紺の花緒の下駄に気付いて露骨に訝った。
だが先方はそんなこちらの態度に気付いて眉間に皺を寄せ、修司は挨拶で誤魔化した。
男はすんなりと相好を崩した。それでも、眼に宿る得体の知れない光と、ふいに口許に現れる威厳のある皺が、修司を緊張させた。
庭は金木犀や橘、百日紅が一体をなしていた。まだ花も開らかぬ芍薬や桔梗も植えられている。緑陰の下は空気が澄み、清々しい。枳の生け垣が、庭の端を区切っている。
その奥にあったのは荘厳な日本屋敷だ。旧武家の邸宅を想起させ、蒼古と佇んでいる。
此処の主、畔倉は、まるで下駄を足の一部にしているかのように機敏に花を運び入れて修司を手伝った。裏木戸から屋敷内に入った二人は今、土間に一旦花を並べた。
どちらが仕事をしにきたのかわからないぐらい主はきびきびと動く為、修司は申し訳ない気持ちで、なにか手伝えることはないかと尋ねると、
……では飾り付けを手伝って頂けませんか。
修司には勿論、断る理由はない。
主に連れられ、花を幾つか抱えて邸内を歩く。
先行する主の後ろ姿を見失わぬよう暗い通路を進んだ。途中でなんどか曲がったり、階段を昇り降りもしたが、いかんせん暗い為、自分がどういう場処を通ったのは推し量れない。
鼈甲色の球暖簾を潜る。その先からは燈りがあった。
修司の眼前に広がったのは、廊下に唐紙が連綿と続く圧倒的な光景だ。
四角い火屋に覆われた燈りから、玉子色の電球がぼうっと磨かれた床面を照らす。
……此処は、何かご商売をする家で。
……ええ、ちょっと、蛇を飼う仕事を、
主はそう答えた。
……うちで扱ってるのはは正真正銘、蛇なんですけどね。やることはちゃんと出来るんですよ。おたくも、なかなかの蛇とみましたが。
……俺は人間ですが、
……またまたそんな事を言って。お互い様なんだから、はぐらかさなくてもいいじゃないか。
笑い、先を行く主。
この男、何やら特殊な構造の人間のようだ。修司は早く帰ってしまいたかった。
この屋敷には多くの房があった。その内、造りから調度品の配置まで同じにした房も幾つかあった。
朱塗りの橋で渡った坪庭では、池の淵を水仙がたおやかに俯いていた。
沢山の襖で幾つにも仕切られた広間や、、広大な庭に生簀など、修司には珍しくも目まぐるしくうつった。
主は奇妙な恣意を入れ、ある部屋だけは百合のみを置かせたり、またある部屋だけは菫のみだったりと統一がない。
主の駄弁に適度な相槌を打ちつつも、花を飾るとはそういうものなのかと、胸の裡では腑にどうも落ちない。
土間を幾度か往復し、やっと飾り終えたころ、修司は疲れていた。場の異様さか、はたまた主のせいか、彼にしては珍しい気力の疲れだ。
主は印鑑を探すため、修司を或る房に待たせ、サッといなくなった。
ひとりになったことをいいことに修司は間延びすると、伝票を投げ出すように卓に置き、部屋を隅々まで観察した。
床の間に螺鈿の壺が据えられ、和更紗を掛けた座卓に、花茣蓙を敷いた床、極めつけは鶸色の蚊帳付きの寝床までありる。壁は橙で長押は緑。
悪趣味なまでに派手だ。それとも、単に己の理解が乏しいだけか。
欄間には龍が雲の中を泳ぐ様が刻まれていて、その眼が修司を睨んでいる。徐々に落ち着かなくなってきた。
ツカサがこんな場処にいたら、あちこちをいじり回すだろう。そしてそれを修司が咎めるのだ。
唐紙を叩く音がして、修司は咄嗟に締まりを戻した。