作品

□釣られる魚
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 西方からの客を乗せた蒸気船の汽笛が、甲高く夜の港に響いた。
 並んだ檣柱(しょうとう)は月の光を受けて細い影を投げ、銀波は鋭く照り映える。
 町中には緑地に金糸で縁取った太いリボンが巡らされ、国旗が其処此処に掲げられ、今宵が特別なものであることを示した。
 瓦斯燈(ガスとう)のもとを、華やかに装った人々が行き交う。
 湊彦(みなひこ)も祭典の群衆の中の一人だった。
 いつもより賑やかな出店を見やりながら、人のうねりを器用に泳ぐ。
 友人たちがめかしこんでいった中、格子縞の筒服に襟繰りの襯衣(シャツ)姿の彼は、動きやすい服装を好む性質だった。装飾といえば、胸元で光る月の形の首飾りと、腕時計だけである。
 湊彦は月桂樹の並木がある目抜き通りへするりと移った。海猫の羽の色をした襟先がはためいた。群衆の具合はかわらぬが、先程の通りよりは動きやすい。
 褪紅と白を組み合わせたモザイクタイルの通りは、並木の豆電球の光で溢れる。
 湊彦はちらりと背後を見た。群衆の中でも、黒服の男たちはしっかりと自分を捉えている。舌打ちして、湊彦は約束の場処へ黙々と向かった。
 黒服は監視するだけで、湊彦を連行しようとはしない。恐らく、相手方は湊彦が自らの足でやってくるということを愉しみたいのだろう。
 少年がこのような状況下に置かれた発端は、溯るとつい昨日のことだった。
 湊彦は非常に手癖が悪い少年だった。
 真夜中、その気でもなかったというのにいかにも上等なカモが眼前を通った為に、つい手が出てしまった。
 スリを成功させた彼は路地裏へと、肩が震えるのを堪えながら逃げ込んだ。
 金貨のような満月を、湊彦は仰いだ。勝ち誇った笑みを浮かべ、青褪めてみえる漆喰の角を曲がろうとした時、待構えていた紳士に手首をとらえられた。
 それが先程のカモだと察し、血の気が引いた。
「少年、盗ったものを返してもらおう」
 低く、しかしよく通る声で紳士が牽制する。
 湊彦の反撃は早かった。紳士の脛を蹴り、来た道を逃げた。
 そこからが予想外だった。
 橄欖(オリーブ)が描かれたの看板を掲げた店の前でのことだ。
 真紅の夜会着に、白い毛皮の肩掛けで豪奢に着飾った女にぶつかったのだ。湊彦の否は勿論だが、女も煙草を手元に余所見をしていた。
 ぶつかった衝撃で、女の首飾りの真珠が、雫のように辺りに散乱した。
 女はくずれた服を直しながら憤慨する。狼狽する湊彦。
 場を取り持ったのは、以外にも追い着いてきた紳士だった。
 彼は湊彦から財布を取り返すと、数枚の札を女に渡して、言い解いたのだ。
 文字通り現金だった女は、ころっと機嫌を変えて去っていった。
 紳士は笑ってもみえる無表情で湊彦に時間と場処を指定し、明日そこへくるように言った。今日のことを顕(あらわ)されたくなければ、という言葉が嫌な余韻を持って響いた。


 待ち合わせ場処は路地裏を抜けるとある、古い劇場前だ。
 楽しみにしていた祭典の喧騒は遠ざかり、後悔ばかりが尾を挽く。
 湊彦には当然、従う気はさらさらなかった。こちらを監視する黒服に気付いて、逃げられないと悟るまでは。
 無理矢理連れていかれるなんて恥は犯したくなかった。
 覚悟を決めたつもりだった湊彦の決心は、劇場前に停まる馬車をみて一瞬ゆらいだ。
 馬車のドアが開く。湊彦は拳に力を込めて乗り込んだ。御者台にいる面長の男が、湊彦を見遣った。
 あの紳士は、悠然と席に腰掛けていた。
 白髪の僅かに混った髪とは不釣り合いに、顔立ちはまだ若い。すらっとした背の、良い風采。
 はっきりと、年齢が掴めない。不思議な青緑の睛をし、笑みをたたえて湊彦を観察する。
「座りたまえ」
 紳士に促され、彼の斜向かいに腰掛けた。革張りの座の心地よさに少し驚いた。
「何が目的?」
 湊彦は糊塗するも、紳士は受け流す。
「まあ取り敢えず、私の部屋へ案内するよ」
 紳士は柔らかく微笑む。
 少しも気が抜けない。相手は何が目的なのだろうか。湊彦は腕を組んだ。まさか、わざわざこんな風に呼び出しておいて、辞色を励まして諫めるとは考え難い。
「伯爵、出発致します」
 ドアから顔を覗かせ、面長の執事が告げた。
 伯爵と呼ばれた紳士は頷くと、ドアが閉まる。湊彦は息を呑んだ。
 すぐに馬車は走り出した。瓦斯燈の光が球になって景色を流れていく。
 湊彦の視線は、ひたすらドアに付いた窓に注がれていた。



 伯爵の部屋とは港の傍にある高級ホテルの一室だった。
 一直線に部屋へと招かれた湊彦は、目を見張る。
 一面は硝子張りで、今宵の祭典の光たちが一望できるのだ。
 祭典の日の夜景が見物であることは知っていたが、これほどの高さからは眺めたことがない。
 月桂樹の目抜き通りは目立った光の平行線を引き、港沿いの青い電飾も、客船の明りも、全て睛へと写る。
「これを着たまえ」
 伯爵はクローゼットからシックなスーツを取り出して、湊彦に押し付けた。
 戸惑う湊彦を、彼は期待を込めたような視線で射抜く。
「何故ですか?」
「下の食堂で軽食を摂ろう。その格好では駄目だ」
 だが伯爵の睛は、湊彦の着替えることそのものが楽しみととれた。
 湊彦は気色ばんで逡巡したすえ、奥の脱衣所へと入った。
 鏡をなるべく見ないように素早く着替えた。スーツは誂えたように身がぴったり収まり、湊彦は気味の悪いものを感じた。
 戻ると、伯爵は黒天鵞絨のソファに掛けていた。こちらを見て、欣快な笑みを表した。
「似合っているではないか」
「そんなことを云われても嬉しくない」
 湊彦はあくまで強気を崩さない。
 この男、物腰は柔らかいが、その腹の内を読むことは全くできない。
 ソファの背凭れに、梟が乗っている。
「ペットのひとりだよ。私は動物が好きなんだ」
 梟は愛嬌のある首をキョロキョロ動かして、湊彦に警戒しない。
 興味なさげに、湊彦はそっぽを向いた。
「では行こうか」
 梟は心得たもので、自ら天井に吊した鳥籠に入り、嘴で出入り口を閉めた。



 軽食はスコーンだった。本当に軽食だ。
 果肉の大きな苺ジャムと雪のようにふんわりしたクリィムが添えられている。
 伯爵はフォークとナイフを使って器用に食べているが、湊彦にとっては面倒でしかない。手掴みで食べたいも、纏った衣裳や場の空気が圧力をかける。
「君とこうして食事ができて嬉しいよ」
 まるで恋人に語りかけるようであったので、湊彦は伯爵を睨めつけた。
「おや、早くしようか。時間があまりないようだし」
 懐中時計を見ながら、伯爵は勝手にことを進めていく。
 彼は立ち上がると、湊彦の手を引いた。驚いて一瞬抗ったが、伯爵は耳元に囁いてきた。
「部屋に戻って、一杯しよう」
 湊彦は黙って頷いた。スコーンよりも、そちらの方が湊彦には魅惑的ではあった。だが、この男に気を許そうとは思えない。
「ほんの一杯だけだよ」
 部屋に戻っても、伯爵は懐中時計を見て忙しなげだった。
 湊彦にはそれが意味する所を推せないが、そのうち自分を解放してくれると考えた。
 テーブルは水槽が占領してるため、寝台に腰掛けて杯を交わすことになった。
 伯爵の手で、透徹った黄金色の液体がグラスに注がれる。湊彦は始終その様子を見ていたが、別段怪しいことはなかった。
 味わうように、そっと飲む。とろりとした感触が、舌から喉へと降りていった。唇についた味まで嘗めとりながら、湊彦の瞼は重くなった。
 グラスを落とし、とたんに寝台に倒れる。
 焦げるような掻痒に至り、声にならない声で伯爵を呼ぶも、相手はグラスの液体を飲み干して満ち足りた表情をしていた。
「いつの間に、何を入れた……」
「おいおい、この酒は最初から‘それ用’だよ」
 曖昧な意識の中で、湊彦は黒天鵞絨のソファーに、真紅の首輪をした白銀の毛並みの猫を見た。その首輪にあしらわれた真珠。
「予定より時間が掛かったね。湊彦、どうしたい?」
 また懐中時計を見た。湊彦の耳殻を舌でなぞりながら、伯爵は小さな声で囁いた。小さな振動でさえ、大きな昂ぶりに変えられた。熱い吐息が湊彦から漏れる。
「貴方が望むなら、時間の許す限りでも……」
「そうだね。私もこんな‘遊び方’は久しぶりだしね」
 伯爵が湊彦の視野を覆う。
 湊彦は自分がさらけていくのを感じた。陸にあげられた魚のように、手足がはねてもがいて、しまいには伯爵へ吸い付く。白い喉をそらす。宥めたり詰ったりする言葉が、体の疼きを更に誘発した。





「伯爵、申し訳ありませんが、祭典の開会式がもうすぐ始まります」
 佳境に差し掛かるところで、横合いから出てきたのは、あの面長の執事だ。
 伯爵は時間を確認して慌てた。服装を整えて、寝台を降りる。
「すまない、湊彦を頼む」
「かしこまりました」
 執事な主人の上着の釦を閉めるのを手伝う。
「伯爵、お戯れは時間にゆとりがある時にお願いします」
「そうだね、すまないすまない」
 伯爵は鏡で身嗜みを確認すると、湊彦の額に唇を落とし、ソファーの猫をひと撫でしてから部屋を後にした。



***



 この伯爵は寵愛するしもべたちと遊戯を行い、逸楽に耽溺している道楽者だ。
 しもべたちは毎回ことなった局面を、夜を、伯爵と共にする。その主役も脇役も、飽くことなく立ち替わる。
 旅先でも伯爵は複数のしもべを連れ、戯れを思い付いては行った。
 微笑みのしたにそんな背徳的な面を隠して、彼は優雅に、祭典の舞台に上る。

***

 ホテルの一室、テーブルを占領する水槽に、一匹の魚がいた。瑠璃色の鱗に、翼のように優美な曲線の鰭を持つ魚だ。真紅の首輪に白銀の毛並みの猫が、それを覗き込んでいる。
 どこかうつろな魚を入れた水槽が、静かに水泡をたてた。
 仕込みを加え用意した酒は予想以上に効いたらしく、これを希望していた湊彦は少し後悔したのだった。



 

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