作品

□蜜薔薇夜話
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 夜の薔薇園は藍の帳のなかでも、鮮やかに紅く映えていた。
 ひたりと、冬薇(とうび)は石畳を踏んだ。
 薔薇園の中心は円形の石畳と噴水、その上に掛かるアーチがある。
 水盤に溜まった水の碧い面に、花片が溜まる。石畳はひんやりと冷たい。
 冬薇は裸足で、その冷たさを心地よいと感じながら、薔薇の蕾を探し始めた。
 蜜蜂が一匹、花の間を飛んでいた。黒壇のように真っ黒な、冬薇の前髪を掠める。こんな夜にも蜜蜂がいるのかと、冬薇は気をつける。
 棘を刺さぬよう慎重に薔薇を掻き分ける腕は、夜に白く、水晶のようにぼんやりと浮かんだ。
 眠れない夜に、薔薇園に出るのが彼の癖だった。見つかってもこれといって何か云われる訳ではないが、行動は義父の目を盗んで行われる。秘密めいた行為は、少年の胸を密やかにはずませた。
 冬薇はやがて、ひとつの蕾を見つけた。
 夜露に濡れた美しい蕾だ。瑞々しく、珠瑰にも似ていて、冬薇は思わず口付けた。
 すると、みるみると蕾は開き、美しい剣弁咲きを成した。
 真新しい馨りが少年の鼻をつき、うっとりしていると、花の底に眸が開いた。
 冬薇は、あッ、と驚いた。
 玲瓏な音が鳴り出しそうな、硝子玉の眸だ。虹彩は氷の蒼で、夜の月色に一層冴えている。
 美しい花の中心に咲くそれは、瞬きもせずに、生々しく見開く。
 冬薇は怖くなり、屋敷へと逃げ帰った。
 途中、窓から義父がこちらを見ていたのに気付いた。
 玄関に入るなり、義父が現れて決まり悪い。
(眠れないのかい?)
 訊かれ、冬薇は頷く。
 少年の肩をとると、義父は私室に冬薇を連れていった。
 義父は人形師だ。私室は寝室と作業室を兼ねていて、机上にはまだ作りかけの人形があった。
(お義父さまも眠れないんですか)
(ああ)
 義父は椅子に着いて作業を始めた。冬薇はすっかり目が冴えてしまっていて、書架から適当に本を取って眺めても、退屈なばかりだ。
 その内、冬薇は窓際に立って薔薇園を眺めた。遠目からでも紅が鮮明で、その中で石畳は、月光で薄碧く切り取られている。
 花の底の眸を思い出して、冬薇の肩は震えた。其処に温い義父の手が添えられて安心した。
 雪白の頸に月光が落ちて、襯衣の貝釦は光った。
 冬薇は急に耳鳴りがしたかと思うと眠気に襲われ、自分の寝室に戻ってすぐ、寝台に身をゆだねた。
 眠気の中でも彼の頭は薔薇園のことにあった。
 涼しいながら何故か寝苦しい夜に、寝台を軋ませる。
 冬薇はうなされて、蜜の喘ぎは闇に融けて、蕾の咲く映像が何度も脳裏に瞬きながら、躰の奥底を疼かせた。
 次の夜も、冬薇は薔薇園に行った。差し支えはなくともやはり忍び足で、しかも殊更に慎重にして屋敷を出た。
 あの薔薇の眸を、どうしてももう一度見たい。昨夜の怖れは嘘のように、少年の興味へと、新たな秘密事へと擦り変わっていた。
 昨夜と違って、星がはっきりと耀いている。薔薇だけでなく夜空も楽しめそうだ。
 部屋から星座盤を持ってくればよかった。そう思った頃には、薔薇園に辿り着いた。
 冬薇は眸を探し始めた。花の底の目を見るのには勇気がいるが、好奇を抑えることは出来ない。
 蜜蜂が、ひとつの花の中で息絶えているのを発見した。
 昨日の蜜蜂だろうか。冬薇は眉根を寄せて、蜜蜂を哀れんだ。
 薔薇の首をそっと傾けて、左の掌に蜜蜂を乗せた。
 右の指先でつついた瞬間、遺骸のはずの蜜蜂は飛び上がった。
 蜜蜂は真上に飛び、すぐに見えなくなった。すると、空から夥しい数の紅い花片が舞い降りてきた。
 冬薇は茫然として、その光景に立ち尽くした。星さえも隠し、闇夜をも燃え上がらせてしまうそれが、薔薇の花片だと解るのは容易い。
 足許も埋もれる程の、とめどなく零る花片から逃れようと走り出した冬薇は、足首を何かに掴まれ転んだ。
 白い襯衣も紅く染まったようになり、冬薇も花片の海に溺れた。

 気が付くと、冬薇は噴水の縁に凭れ掛かっていた。花片の海は無い。
 夢か。彼は安堵に胸を撫で下ろす。
 なんだか疲れたので眸探しを諦めて、重い足取りで寝室に帰り、すぐに寝台に潜った。
 何故か、蜜蜂になる夢を見た。


 すんなり眠れる日はなかなか来ない。
 だから冬薇は今度こそ、あの眸を見つけたかった。次の夜も薔薇園に向かった。
 冬薇は花の底ひとつひとつを確認し、眸を探した。しかしなかなか見つからず、煩瑣なやり方に飽きてきた時、ひとつの薔薇を誤ってへし折ってしまった。落ちたそれを拾い上げると、花の底から丸い物が出てきた。眸だった。
 転がり落ちた眸を掌に受け止めた瞬間、反射的に肩がびくりと跳ねた。
 まさかいきなり出てくると思わなかったが、出てきてみればなんてことないと感じる。
 硝子で出来た目玉だ。冬薇は義父が人形造りに使う目玉を思い出した。
 硝子玉を掌に包み、冬薇は屋敷へ戻った。やはり玄関で、義父が待っていた。
(また眠れないのか)
(はい、お義父さま。でもお義父さまも、最近は遅くまで起きていらっしゃいますよね)
 義父は曖昧に微笑した。彫りの深い顔には、影がくっきり刻まれている。
(私は遅くても大丈夫だ。でも君はまだ子供だから、夜更かしは余り良くないよ)
(でも最近よく眠れないんです)
(なら私の部屋にでもいなさい)
 冬薇は頷いた。
 部屋に入るなり、義父は人形造りの続きに取り掛かり出した。冬薇はやはり手持ち無沙汰で、掌の上で硝子玉を転がした。
 それにもすぐ倦むと、窓を開けて薔薇の馨りを取り込む。
 いつしか、心地よい眠気が這いのぼり、馥郁に包まれて、義父の寝台でそのまま眠ってしまった。


 微睡みから醒めると、義父の姿はなかった。まだ明けきらぬ夜が、閉められていない窓にあって、遠くの糸杉林の輪郭が、目醒める前よりもよく分かったぐらいだ。
 机の上に完成した人形が置かれていて、冬薇はそれに近付いた。
 黒い髪に、木蓮の蕾のような色で、小振りな口唇。蒼い双眸。
 冬薇は硝子玉をなくしていることに気付いた。勘繰って、だが硝子玉は一個だけの物で、義父が人形にそう使ってしまうとは考え難かった。
 だから冬薇は義父を探して訊いてみることにした。
 義父のいそうな場処を全てまわってみるが、彼はいなかった。
 その内、薔薇園にまで来てしまった。
 噴水は水面が鏡のように夜を映して、薔薇の花片は誰かが取り除いたのか、一片も浮いていない。
 澄んだ水鏡を冬薇が覗いていると、義父がやってきた。
(お義父さま)
 義父は少年の両手首を掴み、噴水の方へと押し出した。
(お義父さま、何をするんですか)
 少年は抗う。
(冬薇、眸を見つけてくれて有り難う。片方だけだったが、それでも十分だ)
 少年の膝の高さまでが、噴水の縁の高さだ。義父の力は強く、冬薇は持ち堪えられないと覚悟した。
(あれは、少年にしか咲かせられない薔薇なのだよ。だからお前を、薔薇園に仕向けたんだ)
 なんとか地に着く足は、もう縁を越えて、水に突き落とされてしまいそうだ。
(もう何も考えなくてもいい。お前はもとの場処へ帰るんだ)
 無情にも、義父は一気に力を込めた。冬薇の華奢な躰は噴水に落ちた。
 噴水に底はなく、躰は深く深く沈んでいく。水は纏わりつくように重い。
 もう空も見えず、真っ暗闇のなか冬薇はなんだか温かいものに包まれて、安らぎを感じた。
 冬薇は身を丸め、眠りへと沈んでいく意識のなかで思う。
 そういえば、義父の眸の色も、あの薔薇に開いた眸と、同じ色をしていたと。



 

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