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□寝相が悪いの
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ピンポーン、と玄関チャイムが鳴って。
台所で朝餉の片づけをしていた女性は、水道で手を洗い、ぬれた手をフリルの付いたかわいらしいエプロンの裾で拭いて、玄関に向かった。
その先で、ひょこり、と頭一つ分抜きんでている緑色の頭髪を見つけて、微笑んだ後、鍵をアンロックする。
「どうぞ」
「おはようございます、おばさん。……千尋、さんはいますか?」
律儀に深々お辞儀してからすまなそうな顔をする彼は、お隣さんの子だ。
たまに出かけたスーパーとかの帰りがてらに見たりすることはあっても、特に交流がなくなってしまった子。
見ないうちに随分と身長が伸びて、可愛かった顔はカッコイイ、の分類に入っていた。
自分の娘より五つの下の彼の成長は微笑ましい。
「おはよう、真太郎君。…あの子なら日曜日は寝て過ごす、なんて言ってまだ夢の中よ。真太郎君は今日もバスケなのかしら?」
朝早いわねぇ…。としみじみ言う女性に。メガネのブリッジを上げた彼。
「はい、これから学校に…」
行くのですが…。と、すまなそうな顔をさらにゆがめた彼。
その様子に、娘からもらったものだから、と年甲斐もなく可愛いエプロンを翻した彼女は、どうぞ上がって。と一歩下がった。
おは朝の占い信者の彼の左手に、見慣れたラッキーアイテムがまだないということはそういうことなのだろう。
「今日のかに座は何位?」
そして、さりげなく話しやすいように環境を作る。
「3位でした。ラッキーアイテムが…ラメ入りのオレンジ色のマニキュアで…」
ピンクや赤なら自分の母親も持っていたのかもしれないが。オレンジ色、しかもラメなどは言っていたら手も足も出ない。
コンビニで買う、という手段もあったが、何が悲しくて男が朝からコンビニに駆け込み女性用のマニキュアを買い求めなければならないのか。
いや、それが運勢の補正のためなら、と思うのだが。より確実に目的物が手に入る相手が隣にいたのを思い出した俺は、朝から隣のインターホンを鳴らすのだ。
頼りにしたのは、先日久方ぶりにあって、度々夜のお散歩もとい買い食いに付き合わされている(自分も楽しんで付き合っている感が否めないが)、千尋だ。
「あらまぁ。男の子に難しいものを言うわね、おは朝は。でもそうね、千尋ならそこらへんにいっぱいあるからちょろまかしたっていいわよ、真太郎君。
ついでに、千尋のこといい加減起きなさいって布団から剥がしてきてくれないかしら」
「分かりました。…お邪魔します」
框でシューズをそろえて、端に寄せる。案内されずとも、勝手知ったる何とやら…。隣人宅の間取りや何やらは頭に入っていて、迷うことなく目的の人物の部屋の前に立つ。
猫の形をしたプレートに、『千尋の部屋』と書かれている。これも見慣れた一部分だった。
ノックはしない。ノックをしたところで起きるような彼女ではない。
そして、経験則から、彼女は寝ていたら布団にしがみついても起きない。ゆえに、母親から、剥がしても…という表現が出てくる。
「千尋、入るぞ」
190センチオーバーの身長は、彼女の部屋のドアの高さギリギリだった。
初めてこの部屋を訪れた時には、半分にも満たなかったのに。
「すぅ…」
感慨深く、そんなことを思っていたが。
寝息を立てている彼女を見るなり、眼鏡が割れんばかりの勢いで彼は怒鳴った。
「…な…!女子が何という格好をしているのだよ!!」
「ふぇ……あ…?」
破廉恥にもほどがある!
「千尋!今すぐ服を直せ!下着一枚で寝るなっっ!」
いきなりの怒声に、ちょっとやそっとじゃ起きない千尋が目をこすった。
「真た…ろ…く?」
だが、目覚めそうな気配は一瞬で引っ込む。
うるさい…誰が起きるか、服を直すか…。と布団に足を絡ませ、起床拒否。それがさらにいけない。
タンクトップに、ショーツのみ。下着一枚で寝るな!と真太郎が怒鳴った格好。
大学生になって美白に目覚めた千尋の肌は、インドアスポーツをやっている真太郎と同じかそれよりも白く…。真太郎はめまいがした。
「さっさとメガネをかけるのだよ!起きろ!」
どうしようもない動悸の激しさを押し殺して。
彼が手にしたのは、彼女の髪色と同じ淵の付いた眼鏡で、視界がはっきりすると頭がさえる…という千尋の強制起床アイテムだった。
普段は必要ないらしいのだが、細かい作業はできるだけ家でじっくり派の彼女は、部屋では眼鏡をかける。
それを無理やり布団に顔をうずめる彼女にかけさせて、さっさと着替えるのだよ!と退出。
捨て台詞もあわや、という具合の勢いに、ぽやぽやしていた千尋がまた目をこすった。
寝ぼけていてもおそらく、真っ赤に染まった頬を見られた…、とプレートを見ながら拳を握る。
(おは朝の占いは当たりすぎなのだよ!)
八つ当たりの対象にするのは、目の真の扉でもなく、ましてや千尋本人でもなく…、朝の占い内容だ。
『3位はかに座のあなた!今日は朝からたいへーん…。でも恋愛運はバッチリだよ♪
ドキドキの展開が待っているかも!そんなあなたのラッキーアイテムは、ラメ入りのオレンジ色のマニキュアだよ☆これで素敵な一日を過ごしてね!』
朝から大変なのも、ドキドキの展開もいっぺんにやってきた。
年上の彼女の行動は16年の付き合いでも読み切れないから、自分だけいつも驚いてしまう。
がたがたとかスルスル…とか。そんな音が聞こえるので、扉一枚向こうでは彼女が着替えていることがわかる。
それも青春真っ盛り(一般的な時期的に言って、なのだよ。別に俺がそれに該当するかは、べ、別問題なのだよ)の彼の心臓が痛いくらい高鳴る要因だ。
「真太郎君―…ごめん、着替えたから入ってきてー」
「ちゃんと着たのだな?」
「うん」
あくびをしながらの返事に、ぴしっ…と青筋がたったが。
どうやらあの目のやり場に困る格好から脱皮(いや、着たのだ)したらしい彼女が自分に嘘をつくことはないので、安心してドアノブに手をかけた。
「おはよう…。真太郎君、朝から素敵な目覚ましをありがとう…」
にっこり、と笑う彼女。ああこれは怒っている、と思ったが、彼はブリッジを押し上げた。ここで引いたら「負け」な気がする。
「あんな恰好で寝ているお前が悪い。それに腹を冷やしたらすぐに下すだろう」
大学生…成人済みの女性らしく自己管理もきちんとするのだよ。
というと、きょとん…と目を丸くした彼女はふ、と笑った。
「真面目おかんな真太郎君いただきました」
「事実を述べているだけだ」
堅苦しく返す彼に、全くどっちが年上なんだかなぁ…、と千尋は肩や楽日やらを回す。
酷い寝相で凝り固まった筋肉をほぐしながら、緑色の頭と、テーピングされた左手を見て、なぜここに彼がいるのかを理解したらしい。
よしっ、と言ってベッドから立ち上がった。
「今日のラッキーアイテムはなんだったの?」
「ラメ入りのオレンジ色のマニキュアなのだよ。あれば貸してほしい」
「…また細かい注文だねぇ、おは朝…。どれどれ」
化粧台に乗っている大量の道具をより分けながら、千尋は目当ての小瓶を探し当てた。
「左手出して」
はいあったよ、どうぞ。と渡される以外の選択肢を考えていなかった真太郎は、千尋の手元にあるままのそれを見て眉間に縦皺を作った。
「それを貸してくれるのではないのか?」
「残り少ないんだもん…。これお気に入りだし、貸し出したくない」
簡単に理由を告げると、真太郎はさらに渋い顔をした。ラッキーアイテムが目の前にあるのに、かっさらわれた気分だ。
しかし、それがなくては今日の自分の運気は補正されない。
「千尋」
「でもね、貸してあげられないけど塗ってあげる。真太郎君で残りがなくなるならこれも本望でしょ」
だから手を出してよ、と代替案を出した彼女に、思い切り眉をしかめた。
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