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□今ひとたびの安寧を
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「名無しッ……」


彼女が俺を呼んだ。
反射とも言える動きで体が頭より先に動いていた。考える余裕も、時間もなかった。見たくないと思った。
きっと相手は年下。何度か部活をやっているのを見たことがある。確かサッカー部だったか。でもそんなことはどうでもよかった。
今、目の前でそいつの腕を掴んで開いた片方の腕で俺は自分の彼女を抱き寄せていた。


「……なんか用事、あった?」

「いや、……矢野先輩と話してただけッス……」

「肩を掴んで?」

「っ…」


苦虫を噛み砕いたような表情をしたサッカー青年(名前はさすがに知らないから勝手に命名)は俺が来た道とは反対側へ走っていった。俺の勝ち。
見えなくなるまでサッカー青年の行く先を見つめていると不意に背中のシャツがぎゅうと皺を寄せる。


「矢野…?」

「ちょっと……怖かっ、た」

「……なんかされた?」

「いや、肩掴まれただけ…だけど目が、本気だった」


少し震える手と胸に埋めるようにして俯く顔。頭に乗せた手でそっと撫でる。泣いてはいないようで、少し安心して息をついた。

正直、暗い廊下で肩を掴まれている彼女を見つけた時、心臓が止まるかと思った。普通に雑談をしているだけならまだしも触れていると言う事実に一瞬、ほんの一瞬だけ相手を殴ってやろうかと思った。でもそんな事を考えている暇もなく自分の体は勝手に動き出していた。そんなことより、矢野を。


「すっげー…そりゃもう、心臓止まるかと思った」

「…ごめん」

「矢野が謝ることじゃないよ。でもよかった無事で」

「うん」


未だに顔を上げない彼女の背中に腕を回して頭にキスをする。なかないで、ここにいるよ。
返答するかのように背中に回った腕が強く締め付ける。冷たかった体温が重なって少しずつ暖かくなったころ、矢野はやっと顔をあげてくれた。


「やっとこっち向いてくれた」

「ありがと、名無し」

「当たり前でしょ助けるのは」


そうなじゃかったら俺、彼氏失格。笑ってそう言うと矢野はいつものように笑ってくれたありがとう、大好き。それだけでいいよ。
もう一度、彼女に腕を広げてそっと包み込む。
今度は頭じゃなく、唇にキスを落とした。










今ひとたびの安寧を
(彼女に、)









お題配布元:恋するブルーバード




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