暗
□死亡願書届
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泥沼の闇に埋もれた幻覚を見ている。そんな気がずっとしていた。
なにせ僕は随時、平凡に憧れていたから。理想が平凡だなんて、あまりにも馬鹿馬鹿しいと笑われてしまいそうだけど、ありきたりな自己嫌悪を繰り返す僕にとって、平凡というのはとても崇高な価値に思えた。
「それでね、今日はこんな事があったんだ」
同棲相手ではなくルームシェアとしてのパートナーである美香は、僕の想い人だ。
一年前、流行りのSNSで知り合った僕達は喫茶店を待ち合わせ場所にして一日を遊んだ。
その日の夜に美香は一人暮らしだと聞いて、僕はなんとなく住み着いた。実家暮しに飽き飽きとしていたのかもしれない。まだ、僕は美香に恋をしていなかった。
僕等は十九歳でまだ若く、後先なんて考えていない。そんな時期に出会ったからこそ成り立った共同生活。だけど僕は、人として成り立っていなかったのだと思う。
気付けば一年が過ぎ、僕はいつからか美香に恋をしていた。いや、未だにそれは勘違いなのかもしれないだなんて考える。一年も一緒に住むなんて初めてだったし、情も湧く。だけど、美香がいない生活は考えられなかった。
美香は唐突に言った。
「引越ししたい」
元々、美香の住んでいた部屋は六畳一間と狭く、一人で暮らすならまだしも二人となると窮屈だったのは事実だ。
だけど僕も美香も貯金は無くて、美香は知り合いが金を出してくれるという話を僕にした。
この話を呑んだのが、僕の弱さに助長をかけた気がしてならない。
僕と美香と、結衣。僕等は三人で暮らす事になる。
結衣とは僕も面識があった。一年前、結衣は美香に失恋したからだ。なにもそれは女同士だからとか、ましてや美香が僕に恋をしていたからじゃない。
美香はバイセクシャルだし結衣は美形で中性的な人物だ。ただ、美香の気分だったんだろう。
だけど、僕は恐かった。美香は僕の物じゃないけど、何処かに行ってしまう気がして。
それに、僕は人として成り損ないだから、出てけと言われてしまう気がして。
「へえ、そんな事があったんだ」
美香と結衣が楽しげに話す横で、僕は必死に仕事を探していた。
引越しをして二ヶ月。僕は四つの仕事に受かり、全て僅か二日で行かなくなっていた。
二人にはそんなことも言えず、クビになったとごまかしてはいるが、そろそろ気付かれているだろう。
そして、昨日、また行かなくなってしまった。肩身が狭くなるのは当たり前で、僕はまだ何も言えずにいた。
「大樹はどうだった? 今日の仕事」
仕事は行っていない。その時間は公園にいた。まるで、リストラされたサラリーマンのように。
「うん、まあ、普通だった」
「そっか」
美香は嬉しそうに言葉を跳ねさせる。
彼女いわく、僕を嫌いになりたくもなければ一緒にいたいとは思うらしい。だけど、僕が金を稼がないから暮らしようがないと、前に、泣いていた僕にそう言った。
結衣は態度に出さない。全く嫌なそぶりを見せない。それが逆に恐くなる。きっと、結衣はもう呆れてる。
僕が願うのは平凡。
普通に毎日仕事に行ける、力。
何故行けなくなったのか解らない。三年間仕事をしていたのに。急にだ。
夜になると考えてしまう。仕事の面倒臭さ、脱力感。
きっと、ただ甘えているだけ。そう考えて、僕は首を吊ろうと試みる。
こんな作業を習慣にはしたくない。とっとと死んでしまえば楽になる。だけど、恐くて、死ねなかった。
毎日、毎日、毎日、毎日。もう、二週間になる。
クローゼットを開けて、既に用意されたネクタイに首を入れる。
首の脈を絞めて脳に血が行かないように、両手も使ってネクタイに力を入れる。
成功すると、足と手がぶるぶると震え出す。その時点で恐怖は無いから、きっと生体的な動作なんだろう。
この状態で一分。一分もしない内に意識は途切れると聞いた。
そうすれば手に力は入らないが、重力が僕を殺すと思う。
だけど、いつも僕は視界が歪んだ頃合いで力を抜く。
恐い。それがその時の全てだ。
甘えから仕事に行けず、自らの首を比喩的に絞めて肩身を狭め、当然、美香にも呆れられていく。
美香はいつか結衣に惹かれるかもしれない。彼女は身を犠牲にして金を稼ぎ、傍目から見れば貢いでいるようにさえ感じる程に頑張っている。
僕は、口先だけで生きている。
信用も無くした。当たり前のように。
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