□路数-ミチカズ-
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なんで俺がこんな目に合わなきゃいけないんだ。俺が何をしたって言うんだ。平々凡々に暮らしてきたじゃないか。悪事も働かずに生きてきたじゃないか。なぜだ。なぜ俺が選ばれたんだ。
 糞。悔やんでも嘆いても仕方ないのか。また同じ場面に戻っちまった。一体どれが正解なんだ。俺は――
 ――何をしたらいいんだ?
 
 まず最初に目の前の女に話しかける。長く長い真っ直ぐな黒髪が印象的な、キツネ目で、その上感情が無いような女だ。これをしなければ物語が進まないらしい。

「此処は貴方の世界です」

 是非を赦さず無機質な声が響き、説明を始めた。
説明と言ってもただそれだけだ。これを説明と受け取っていいのかは解らないが、現状を印した言葉はこれだけ。それを俺はもう何十回と聞いた。ほとほと嫌になる。
 場面は街中だ。少し歩くと交差点がある。後ろを振り返ればあの女が見え、まだあの女だと認識出来る距離。
 この交差点の信号が"赤"になったのを見計らって歩道を走り抜ける。"青"で渡ると確実に轢かれる。何故かは解らないがそういうものなんだと受け入れた。
 直線では無く道なりに歩く。すると三角州の様な分かれ道に出る。これは"左"だ。"右"に行くと通り魔に刺されて殺される。通り魔は隣の家に住む家族の息子さんだ。それを知った時あの女の言葉を俺は理解した気がした。此処は少なくとも現実じゃない。時の流れ等はまるで存在せず、世界なのだ。
 俺の、世界。

 歩けど歩けど道は終わりを告げない。そもそも目的地を知らない上に目的も知らないのだから仕方ないだろう。だが思う。なぜ俺なんだ、と。
 こうして歩くと選択肢はあまりにも無数だ。組み合わせを考えれば何千通り、何億通りとまるで解らない。だが失敗を知らせる事柄は単純で、しくじれば死ぬ。それだけだ。
 真上にある太陽は沈まない。暑さも感じはしないのだが。

 しかし、これが現実でないのなら現実の俺はどうなっているんだ?
 美智子は、美智子は大丈夫なのか?

 そう考えてはっと気付く。美智子の事を考えるなど、もう、何十年振りになるのだろうか、と。


********

 室内には重い空気が充満していた。少しでも気分を晴らしたくて窓を開けようと試みるのだが、それは心の内で完結して何故だか手は動かない。
 こうして夫を見ると酷く歳老いたのだな、と感じる。
 夫をこうもまじまじと見るなど二十年は無かった気がするからだ。
 ああ、こんな所に黒子があったっけ。
 こんなに白髪は増えていたっけ。
 こんなに皺があったっけ。
 まるで現実逃避をするかのように頭にはどうでもよい事ばかりが浮かんできた。
 でもそれは何故だろう。仕方ない事だとは思う、が何故だろう。
 夫婦生活など結婚して十年で終わっていた。夫の歳が三十五を迎えた日、私の体に子供は宿らないと知ったからだ。
 ――そうなのか?
 自問自答の末に良い言葉は埋まらない。ただ、それから夫は何処かよそよそしかった気がする。それが理由で無いにしろ、きっかけではあっただろうから変わりはない。理由もきっかけも仮に無いにしろ、結果、私達の夫婦生活は終わったのだ。
 冷めた溝が埋まる事は無かった。それをたいして気にせずにいたら、なんだかどうでもよくなってしまった。
 喧嘩も無く、言葉も無く。
 沈黙の食事は日常茶飯事で「残念ながら」

 医者の言葉で我に帰る。まるで走馬灯のように駆け巡った記憶の正体が解る筈も無く。

「植物状態と判断されました」

 驚きは酷く顔に出ていたのだろう。医者は夫の状態を―申しあげにくいのですがと前に付けて―再度繰り返した。
 ただ、私の頭の中には漠然と、夫が巻き込まれた事故によりおりる事故の保険と相手方の毎月の治療費でどれだけ入院費が賄えるのかを考えていた。

********

 様々な選択の途中、一度考えた美智子の事を整理する為、俺は道すがらの公園のベンチにもたれ掛かり足を解していた。
 美智子。何月何日に結婚したのか覚えていないが、俺が二十五の時に結婚したのだからもう三十年間も一緒にいる。
 妻、というのはもはや体裁と義務であるだけの状態だっただろう。
 何時からだろうか、すれ違いの日々が始まったのは。

 ――確か、そう。美智子の体に子供が宿らないと知った日からだ。
 あの日、酷く落ち込む美智子に俺は何も声をかけられなかった。翌日も、その翌日も。
 体外受精も無理だと言われ、美智子の落ち込みようは半端ではなかったのだ。
 どう接すればいいか解らず、何も言ってやれない自分が不甲斐なくなり、とにかく仕事に打ち込んだ。
 残業も休日出勤も気にせず働き、気付いたら――溝があった。

「あれからか」

 何故だかふっと寂しくなった。
 美智子の顔も、声も思い出せない自分がいた。
 なんてことだろう。三十年も連れ添った妻の顔も声も思い出せないなんて。
 二十年前と同じに不甲斐なくなった。そんな自分に嫌気がさした。悲しく、胸は苦しい。
 糞。これじゃまるで繰り返しだ。いや、繰り返させはしない。同じ過ちを。
 此処が現実じゃないなら何処かにある筈だ。諦めるものか。諦めてたまるか。探し出してみせる。現実への帰り道を。
 奮起した俺は急いで公園を後にする。公園を出た所で人にぶつかった。人は微動だにせず言葉を発し始めた。その女は黒髪で、感情の薄い顔立ちに鋭いキツネ目だけが妙に浮いて見えた。

********

 医者に宣告された日から一週間が経った。
 保険金は直ぐに入らないものの、多額の保険金が入ると知った。が、夫はドナーカードを持っていた。つまり、臓器を提供する事が出来る立場になったのだ。
 知らなかった。夫にそんな一面があるなんて知らなかった。
 そう考えると、私は夫について知らない事だらけだと気付く。
 それどころか一週間前に顔を認識し、未だに声が思い出せない。
 それは酷く虚しく、自己嫌悪が多忙になる。
 そして気付く。ただ寂しかったのだ、と。
 だけど夫はドナーカードを持っていた。植物状態は脳死ではなく、意識不明から回復する可能性が限りなく零に近い事を示しているのだ。
 それは――生きている。
 だが、植物状態の人間が回復した例は世界を挙げて千人を切るのだという。ドラマみたいにはいかないのだ。
 その上、事態は急を要している。
 夫の臓器を待つ患者はもって二週間、いや、もう一週間しかない。
 ドナーカード。それは即ち夫の意思なのだ。だけどどうしたらいいのだろう。私は、私は、もう一度あの人に

 会いたい。

********

「何の用だ」

 理由は解らない。身構えてしまう。俺の直感がこの女を全力で拒否している。何故だ。気持ちの悪い汗が額を滑る。この女と話してはいけない。だが、この女が此処にいる理由。そう、此処は俺の世界だ。

「貴方が此処にこの世界に時と遮断され空間から切り取られ何度の失敗にも寛容なこの世界にいる理由を申し上げましょう」

 あまり早口でも無く聞き取りやすい。が、機械的に無機質に一息で女は言った。

「貴方の存在は限りなく透明に近い状態でした。限りなく透明になればなる程にこの世界の仕組みは複雑に路を増やしていきます。ですがもしも路を進み続け到着点に辿り着ければ限りなく透明に近い状態が殲滅され貴方の存在は限りなく不透明に近くなります」

 その言い回しは俺を混乱させるには充分過ぎた。だが、感覚が本質を射抜く。瞬間、体がふっと軽くなった気がした。それは力が抜けたのではなく力が入らなくなったのだと、数秒経って理解した。
 様々な言葉が喉を飛び越えそうになる。ふわりと浮かんでは刹那に消え、ふわりと浮かんでは刹那に消える。
 俺の口から出た言葉は意外にも真心の内の奥に潜む、大切な、大事な――。

「美智子を、幸福に……」

********

 病室で夫の顔を見ていた私は、次第に沢山の事を夫に話していた。
 それは最近の趣味であったり隣家の河東さんの話であったりと他愛のない話であったが、不思議と夫が私の事を受け入れ、私の事を知ろうとしてくれているような気がして嬉しかった。
 もしも夫が変わっていないなら、夫はこう答を返してくれただろうな。そんな想いを胸に、拭いきれない悲しみと共に、私は決断した。

「貴方は今幸福ですか?」

 不可思議な言葉に釣られ振り返るとそこには看護師がいた。
 張りの無い声で看護師は繰り返す。

「貴方は今幸福ですか?」

 それは当然、私の神経を過敏に逆なでする。

「幸福なわけがないでしょう!幸福な……幸福なわけが……」

 怒りと同時に悲しみが、涙が溢れてくる。なんなんだこいつは。

「では貴方の幸福とはなんですか?」

「私の……幸福……?そんなのっ」

 決まっている。私の、唯一の、幸福。

「夫が目を醒まして、ごめんねと言って、愛を伝えて、笑って……子供だって欲しいわ。だけど! そんなのは妄想じゃない。ただの現実逃避じゃない。叶う筈の無い願いばかり。だけど、どうしたらいいのよ! どこに幸福を求めたらいいのよ!」

 年甲斐も無く泣き崩れた。鳴咽と吐き気、苦しみ。コントロールの効かない感情。呼吸すら忘れそうだ。悲しみに押し潰されて。

「そうですか。ところでご主人の今後ですがどうなさいますか?」

 その言い回しに苛立ち看護師の頬をビンタしてやろうかと立ち上がる。だが、止めた。止めたというよりは、違和感に気付き止めざるを選なかった。
 よく見てみると看護師の顔はどこかのっぺりとしていた。
 何がのっぺりとしているのかは解らない。何せ看護師の目は吊り上がっていて、威嚇している訳ではないだろうに可愛らしいとは言い難い。だが、目立つパーツもある。
 窓の風がさらりと看護師の黒髪を揺らす。どこのシャンプーなんだろう?今までに嗅いだ事が無い程に心地良い香だ。その香が心まで染み入り、私は落ち着きを取り戻していた。

「さっき先生に言ったわ。同じ事を言わせないで」

「いえそうではなくてご主人のご子息を残されますか?と聞いています」

 夫の、子供?
 夫を見るとその寝顔は安らかだ。呼吸も微かに聞こえる。心電図の甲高い音がそれを掻き消すのだけれど。

「幸福と云う物はいつだって非日常的で叶う筈の無い願いばかりです。確かにご主人の意識を取り戻すのは難しいでしょうし奥様の体にご子息を宿す事は無理でしょう。ですがご主人の精子を取り出し奥様とは違う女性から卵子を買い代理母を雇えば出産出来ます。ただ奥様のご子息とは言えませんが」

 看護師は一つ大きな間を置いて、私の心を揺るがす決定的な言葉を突き付ける。

「ご主人の分身に値します」

 ただ頭は空っぽになり夫の心音を示す音だけが空洞に響く。
 何度も何度も夫の顔を見て、私は心の弱さを叩きつけた。
 幾度叩きつけてもほんのり暗い闇は消えず、それでも必死に叩きつけた。
 空っぽの頭には甲高い音だけが響いて止まなかった。

********

「あなたはね、とても優しかったのよ。私が熱を出して寝込んだ時に、会社を早引きして慌てて帰ってきてね、ふふ、あの慌てようったら」
「ご飯なんてろくに作った事ないくせに"これを食えば元気になる!"って言って、お粥を出してくれたの」
「そのお粥は沢山の葱で下が見えなくてね、ふふふ。でも、美味しかったわ。とても美味しかった」

 腕の中にいる柔らかい塊はきゃっきゃとはしゃいで笑っている。
 無邪気で無鉄砲で、この目なんてあの人そっくり。

「私はお母さんじゃないけれど、あの人はたっくんのお父さんなの。私はお母さんじゃないけれど、誰よりもたっくんを大切にするからね。誰よりもたっくんを愛しているからね」

 あの時した私の選択は人から見れば狂人のそれに近かったのかもしれない。
 だけれどこれで良かったのだと思う。
 お陰で私には生きる意義が出来たし、この世にあの人の子を、あなたを誕生させる事が出来た。
 この子には無数の路があるのだから、それを一つでも閉ざさぬよう、一つでも増やすように頑張らなければ。
 よし、今日も仕事だ。

「行ってくるわね、貴方」

 仏壇には大切な夫が飾られている。
 生涯の内に最も愛し、沢山の後悔をし、誰よりも純朴だった夫がそこに。




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