暗
□燃える滝の前で
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それは既に日課となりつつあった。生活リズムの一部であり、呼吸と同じに欲する。
慢性的な中毒症状があるのではないかと疑う。だが、これは悪魔信仰の召喚術にも似た崇高な儀式であると僕は盲信する。
目前を遮る赤はまるで花火だ。パチパチと音を立てる仕種は可憐だった。
さっきまで聞こえていた三つの悲鳴は落ち着き、折角のカプリッチオを乱す不協和音も無くなった。
燃える滝は際限なく落下地点を高くする。気付けば空を仰ぐ程に首を傾けていた。
きーらーきーらーひーかーるー よーぞーらーのーほーしーよー
僕はいつの間にかあの歌を口ずさんでいた。
いつか父親に聞かされた子守唄。
いつか母親に聞かされた子守唄。
いつか聞こえなくなった子守唄。
もう何年前になるのだろうか。年齢という概念はあの日に消えた。
空気が焦げつきアスファルトが溶ける中、視界の中の赤はあの日の赤に染まっていった。
まだ僕は黒く重いランドセルを背負っていた。いや、背負いたてだったのかもしれない。
少なくとも僕は世界の汚れた部分を何一つ知らなかっただろうし、父親と母親に挟まれて笑っていた。
その日もいつものように学校に通っていた。
家に帰れば今日は父親がいる。喜び、いつもならする友達との約束をしないでいた。
学校生活の一日の終わりを告げるチャイムが鳴ると、僕は我先にと走って教室に出た。
確か、毎日帰り道にある駄菓子屋でお菓子を買っていた。その日は目もくれずに帰路を急いだのだから、父親がいることが余程嬉しかったのだと思う。
道中に考えていたことをよく覚えている。
はやく家にかえってお父さんと遊ぼ!お母さんにあまーいケーキを作ってもらうんだ!お父さん、いるかな?お母さんとかいもの行ってないかな?
幸福な未来と少し切ない未来が混じり、期待に高ぶり失意にうなだれ些か大変な心持ちだ。
記憶の中では夏ではなかった。が、暑いなと思い袖で額の汗を拭う。
すると、向こうの空は夕焼けに酷似した色合いに染まっていることを知った。
おかしい。反対側の空を見たが、雲が漂う澄んだ青色をしている。
それもそのはず。夕方にはまだ早い。
ようく眼を凝らして見ると地上より少し高い位置から煙が上がっている。
それは社会科見学の時に教師に連れられて行った工場を彷彿とさせた。
長い、とても長い、昇れば雲を掴めるような煙突からもくもくと煙が排出されていた。雲はこうやって作られているんだと子供じみた考えをしたのを思い出す。
そしてまた、子供じみた考えは僕を懐かしくも包んだ。
「あ…雲がつくられてる…」
間近で見ようと僕は走った。
肌を伝う汗など気にもならずに走った。
子供の足はまだ短く遅い。体力がある方でもなかった為、雲の製造場所にたどり着くには時間を有した。
だが、着実に近づき僕は真実を見る。
製造場所は碁盤目のように沿って一軒家が立ち並ぶ一画だった。
その内の三軒が横に燃えていた。
木の藻屑が天に昇る勢いで飛び回る。
眼に染みる程の煙は呼吸に混じり体内を侵した。
そして、ごうごうと燃える滝を前に僕は思った。
「キレイだ」
初めて出会った感動だった。とてつもなく心を揺り動かした。炎という名の幻想に捕われた。狂える程に叫びたくなった。
だけど、鳴咽がそれを拒んだ。
「キレイ、だ…」
アスファルトの地面は灼熱だった。お構いなしに突っ伏す。
鳴咽は切れると同時に叫び声に変わった。
涙がどうしようもなく流れ、このまま涙が止まらないのではないかと思った。
「お父さん…お母さん…」
三軒の内の一軒は僕の家だった。
初めて出会った感動は同時に大切な者を奪っていった。
全ての事柄がコインのように裏表があるのだとしたら、僕は炎を愛し憎んでいるのだろう。
大切な物を教えてくれた炎。
大切な者を奪っていった炎。
両端の感情は遠いようでいて近く、極論に任せれば答は容易。
僕は炎に心を焼かれたのだ。
燃える滝を前に僕は、二度と聞かされない子守唄を延々と歌っていた。
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