HxH

□パンドラボックス
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 月のない空だった。

 強すぎる高層ビルの灯りは星の光を掻き消し、闇を淡く濁らせる。

 深夜を過ぎても、この街は眠ることはない。酔った男の呻き声、甲高い女の笑い声、それらの雑音は、月も星もない夜空に高く高く昇っていった。

 既に休もうと自室のベッドに潜り込んだ私は、一度閉じた瞼を暗闇の中で薄く開く。

 溜め息を吐いて、代わりに吸い込んだ空気は、僅かに湿気を含んでいた。雨でも降るのだろうか。そう言えば、少し雲が出ていた。

 早く降れば良いのに。

 あの夜も、確か雨だった。


 あれは、こんな夜に現れる。


 胸元から、か細い鈴のような音がして、私は笑みを洩らした。脳に直接響くような、鼓膜を調節震わすような、不愉快な音。きっとあの夜も、この音がしていたのだ。

 寝そべったまま、室内をそっと見渡す。部屋の隅、外からの光を全く受けない場所で、佇む影が、一人。


 ああ、居た。


 長い黒髪。白い肌。深淵の瞳。


 ああ、この男だ。


 あの日と同じ姿で、死が私を見詰めていた。

 あまりにも待ち望んだ姿に、私の心は安らぎを感じる。


 ゆらり。

 男の影が近付く。


『残念ね。貴方なら私が気が付く前に私を殺してくれると思ったのに』


 上半身を起こし、私は言った。寝入り際の舌足らずな口調。思わず笑ってしまう。


「そうだね。正直、君が起きたのは意外だったけど、君が死んだことを自覚する前に殺すことは出来るから安心しなよ」


 足音もなく近付く男。静かな動作で、服も髪も全く乱れない。空気が擦れる音すらしないのだ。この男には質量がないのだろうかと想像してしまう。

 男の言葉を遮るように、耳鳴りのような音が鳴り響く。私にしか聞こえない音。音の発信源である小箱を引き寄せて、掌よりも少し大きいその立体を胸に抱いた。音が鳴り止む。


「妙なオーラだね。そいつが俺の侵入を知らせたのかな」


 箱を見て、男が言った。音は聞こえない筈なのに。

『そう。この箱のお陰で、私の身には一切の危険が及ばない』


 箱は静寂し、代わりに生き物のように温もりを宿す。エネルギーを生んでいるのだ。私を守る為に。


『呪われているの。箱に気付かれたら、もう誰も私を殺せない。私を傷付けることは出来ない』


 たとえ、私が望んだとしても。


『だから、箱が気付く前に私を殺して欲しかったのに』

「それは、なに?」

『この箱は、この世の全てが入っているそうよ。でも、絶対に開けてはいけない』

「なぜ?」

『知らないわ。箱貰った時に、そう聞かされているだけ』


 箱は封じられていて、私には開けることが出来ない。この男なら開けることが出来るかも知れないが、そもそも箱に触ることすら出来ないだろう。


「まあ、俺は君を殺しに来ただけだから」


 そう言って、男は釘のようなものを私に見せた。大きな針だ。但し先端は球体になっている為、糸を通すことはできない。そもそも、裁縫用ではなさそうだ。

 また、耳鳴りのような音。

 頭痛を伴うその音に、思わず顔をしかめた。


 男はゆっくりとした動きで、針を翳す。私に見せつけるように。尖端を私に向けたまま、男が腕を降り下ろす。

 その動作はとてもゆっくりだった。なのに、私は動けなかった。

 スロー再生のように、コマ送りのように、真っ直ぐに迫ってくる鋭利な尖端。私の眼前で動きを止めたそれを、私はただ、見詰めていた。

 男が放った針は、私の鼻先から数oの空中で制止し、やがて、ぽとりとシーツに落ちる。


 音が止まる。


「なるほど」


 男が呟いた。


「君を殺すには、先ず、それをどうにかしなくちゃならないのか」

『だから、さっきからそう言っているのに』

「相当、強いオーラが込められているね。それは誰から貰った?」

『父よ。その父を殺したのは貴方なのだけど、覚えてないの?』

「あれ、そうだっけ?」


 男は顎に手を当てて私を見た。それから三秒かけて首を僅かに傾け、同じ時間をかけて元に戻る。その間彼の表情は全く変わらないので、機械仕掛けの人形を見ているようだった。


『なーんだ』


 肩を落として呟く私。落胆、という二文字こそ、今の私に相応しい。

 てっきり、彼は、一年前に殺しそびれた私を片付けに来たのだと思っていた。男が父を殺した所を私ははっきり見ているし、男はそれに気が付いていた筈だ。何故なら、その時に、私は彼と会話をしているのだから。

 薄闇の中、徐々に冷たくなっていく父の身体を抱え、私は突然の暴力に震えていた。死を目の当たりにして、それでも悲鳴を上げることさえ出来ない。身体の全ての筋肉が緊張し、硬直し、麻痺していた。私は、感覚器だけの存在になっていた。

 しかし私の触覚は死に触れることはなく、代わりに聴覚が死神の声を聞いた。


「一年後、また殺しに来るよ。それまで、生きているように」


 そう言って、頭を撫でてくれた。大きくて、温かい掌。その感触はまだ、私の頭のてっぺんに残っている。

 今日がその一年後だ。

 あの時の温もりを辿るように、私は自分の頭頂に触れる。髪の毛が冷えた指先に絡んで、ひどく鬱陶しかった。


「確かに前に此処に来たときに、何人か殺した気がするな」


 顎に手を当てたままのポーズで、男が言った。男は父と一緒に、この家の使用人も全員殺していたのだ。お陰で、家中埃だらけになってしまった。そのことに関してだけは、私はこの男を恨んでいる。


「それにしても、どうするかな。俺は君を殺さないとならないのだけど」


 そう言う男の表情は、特に困ってはいなさそうだった。まるで、私を殺すこと自体には興味がないようだ。男が有名な殺し屋一家の一人だというのは、父の葬儀の参列者が噂していたので知っていた。きっと、私を殺すのも彼の仕事なのだ。お金を稼ぐ為の手段の一つでしかない。

 そう考えると、私の命にも価値があるのだなと思えてくる。これは、感動に近い。

 こんなちっぽけな箱に縛られて、何処にもいけない私の命にも、報酬を得るだけの価値があるのだ。

 ああ、早く殺して欲しい。そして、私の価値を早く実証して欲しい。

 私は呪いの箱を見下ろし、丸みのある蓋を撫でた。


『どうすれば、私を殺せるの?』


 早く、早く。


「それの呪いを解くしかない」

『どうすれば、呪いは解ける?』

「そんなのは俺が聞きたいよ」

『せめて、この箱が開ければ、何か変わるかも知れない』

「開ける?それを?どうやって?」

『分からない。けど、方法がある筈』

「そもそも、さ。君の持っているそれを、俺はどうしても箱には見えないんだよね」


 男の言葉に、私は顔を上げる。箱に見えない?これが?

 再び、手の中の物を見下ろす。掌を輪郭に沿わせると、すべすべとした触感が皮膚に伝わった。


「だいたいさ、そんな形の箱があるの?」


 男が箱を指差す。

 形?上蓋に丸みがあって、底面は少し歪。一角だけ突き出ている。蓋の下には二つの窪み。底辺に近い位置にライン状に刻まれた、真珠のような装飾。

 これは、この世の全て。

 私の全て。

 開けてはいけない。

 開けてしまえば、全てが逃げていってしまう。


「それ、どう見ても」


 薄っぺらい暗闇のような瞳が、私と、それを映していた。



「人の頭蓋骨(あたま)でしょ」
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