Baby,It's you.

□1.5
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 彼女が通り過ぎる度、誰もが彼女を振り返る。


 俺には、それが、嫌で嫌でたまらない。




 ほら、



 あいつらも。




「見ろよ、あの子、すげー可愛い」


「どれ?どの子?」


「ほら、マキシ丈ワンピの、帽子かぶった」


「お、まじだ。待ち合わせかな。声、掛けちゃおうぜ」




 馬鹿そうな男どもの話し声は、道路の向こう側の俺にも聞こえてくる。他の人間よりも性能が良いから、この耳は。



 建物に凭れて歌の練習に夢中になっている紗々は、気が付いていない。そんなに真剣にならなくても、充分、上手だとは思うのだが。先日、店長にダメ出しされたのが堪えているようだ。



 俺は買ったばかりの文庫本を後ろポケットに捻込んで、車通りの多い車道に踏み出す。



 小心者のドライバーが、けたたましくクラクションを鳴らした。スピードを維持して走行すれば、俺と接触することはないのに。こんな単純な距離感も掴めないなんて、人間は不器用だな、と思った。



 紗々と、紗々に声を掛けようとしている男たちとの距離は、あと四メートル程。



 大丈夫、間に合う。



「ねーねー、なにしてんのー?暇なら、‥‥うわっ」



 短い髪を茶色に染めた少年が紗々に触ろうとするのを、左腕を割り込ませて妨害。紗々が凭れている店の壁にすごい音を立てて掌底を叩き込んでしまったが、気にしてはいられない。




『蔵馬さまっ?』


 驚いた紗々が、漸く顔を上げる。俺は、それに、心のなかで苦笑。そんなことでよく魔界で生きてこれたな。




「すみません、彼女、人見知りが激しいので」



 穏やかな笑顔を心掛けて、音に怯えた男に言う。男って言っても、まだ高校生くらいの少年だ。少し大人気なかったかな。心のなかで反省する。



 怯え焦る少年たちの顔を見下ろすと、彼らは引きつった表情で謝罪しながら逃げて行った。意外と根性がないなあ。



『お探しの本はありまして、蔵馬さま?』



 一部始終を見ていた筈の紗々が、後ろから覗き込むように俺を見上げた。なに事もなかったかのような笑顔。白い帽子がよく似合っている。



「ええ、一応は」


『それは良かった』



 微笑む紗々は、本当に良かったと思っているようだ。少なくとも、俺にはそう思わせる笑顔。



「紗々、暑くなかったですか?」


『ええ、日陰にいましたから』



 こんなことなら、紗々と一緒に本屋に入れば良かったと思う。後悔してももう遅いのだが。『本屋は、迷子になりそうで苦手なんです』と言った、紗々の苦笑いを思い出す。




 紗々の白い大きな帽子は、日焼け対策のものではない。魔界の分厚い雲の下で育った紗々には、人間界の夏の日射しは眩しすぎるらしい。

(サングラスは、俺が止めた。芸能人に間違われそうだったからだ。)



『人間界て、変化が早い。本当に忙しないのですね。お祖母さまの言っていた通り』



「へえ。長がそんなことを?」



『ええ。人間は、私たちと違って時間がないから、いろんなことを即決して、その決断に覚悟を込めて生きていると』




 あの長が、そんなことをねえ。



 紗々の祖母あたる人魚の長には、一度だけ会ったことがある。生命を脅かすほど失血した紗々の治療法を聞くためだ。



 殴られたけど。



 しかも、酒瓶で。



 人間界では有り得ない度数のアルコールを浴びながらの、長の台詞は名言だったな。


「純血の人魚を舐めるんじゃないよ」



 まあ、実際、紗々は俺なんかの手には依らず、自力で回復してしまったのだが。



『蔵馬さま?』



「あ、ああ、すみません。ちょっと、考えごとを」



 黙り込んでしまった俺を心配そうに見つめる紗々を、可愛いと、俺は思う。


 けれども、その眼差しに、黄泉へ向けるような敬愛は含んでいないことも、俺は知っていた。



「歩き通しだけれど、疲れてない、紗々?」


『はい、平気です。脚にも慣れておかないと』



 言いながら、足首まで覆う丈のスカートを、紗々が摘み上げる。ウェッジソールの、夏らしいサンダルを履いた華奢な足が現わになった。



 あまり凝視してもいけないと思い視線を外すと、紗々に不思議そうな顔をされる。自分の魅力に気が付いていないのか。人魚がどういう生きものか、知識はある筈なのに、自覚はないようだ。



「駄目ですよ、あまり素肌を晒したら。紗々は、その存在だけでも、人間には刺激になりますから」



 俺の言葉に、紗々は笑顔をやめて、『すみません』とスカートを戻す。



 ああ、そんな悲しそうな顔をしないで。



 違うんだよ、本当は。



 俺以外に見せないで、ってこと。



 言ったら、紗々を笑顔に出来るだろうか。




 本来なら、俺に笑顔を向けてもらう資格なんて、ないのに。



「紗々、お腹すきません?どこか、寄りましょうか」


『あ、いえ。お腹は空いていないです。それに‥‥』



 首を横に振る紗々は、それ以上を言わない。その先の言葉を予測出来る俺は、「そうですか」と答えるだけ。



 紗々は、百年近くもの間、食べものを口にしていない。黄泉に食べられる前に、妖力を洗練したかったようだ。日本人で言うところの禊のようなものだろうか。



 紗々が未だに“食べる”行為が出来ないのは、その後遺症もあるだろうが、もう一つ、原因が存在する。



 その原因こそ、俺の愚かな欲望の成れの果て。



 優しい振りをして、紗々を奈落の底にまで追い詰めた、俺の罪。




 ああ、なんという、




 甘美な響き。




 今の紗々を形作るものに、少なからず、俺が関係している。



 たとえそれが、



 紗々に見せた、




 一時の絶望であっても。




 俺は、それに、後ろ暗い喜びを覚える。




 本当に、




 笑顔を向けてもらう資格なんて、ないな。








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