Baby,It's you.
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甘い香りの煙を細く吐き出しながら、彩子さんは「なんか、違うのよね」と呟きました。
練習を始めるときに火を点けた煙草も、もう、半分以下の短さ。
彩子さんの煙草の減りの速さは、彩子さんのご機嫌と関係があります。
ご機嫌が、斜めであればあるほど、速い。
それは、最近発見した、私の最新情報なのです。
『ちがい、ますか』
彩子さんの声に、私は唄うのを止めて、首を傾げます。
私が止めたことにより、演奏を中断せざるを得なかった高瀬さんは、少し落ち着かなさそう。
私が、歌を変なところで止めたせいですよね。すみません。
「そ。違うのよ。
紗々ちゃんの歌は、凄くうまいのよ。
でも、それだけ。
なんか、こう、恋する楽しさとかが、伝わってこないのよね」
カウンターに肘を突いて凭れかかる彩子さんは、とてもしなやかで色っぽくて。
とても羨ましくなります。
『恋の楽しさ、ですか』
私が呟くと、彩子さんは「そうそう」と言って、一度だけ首を縦に振ります。大きく、ゆっくりと。
それから、両手を胸の前で組んで、目を瞑りました。まるで、なにかにお祈りするようなポーズ。
「その人のこと考えると、こう、ふわふわって」
『ふわふわ?』
「はわーって、ならない?
『はわー?』
私は、ピアノの前に座る高瀬さんと顔を見合せました。
高瀬さんは、いつもより少しだけ瞳を大きく見開いています。いつもは、感情を表情に出さない高瀬さんが、珍しいことです。
「わっかんないかなあ。
紗々ちゃん、あなた、恋したこと、ある?」
新しい煙草に火を点けながら、彩子さんは首を少しだけ傾けました。
その仕草さえ、とても優雅で可愛らしくて、私は質問の内容を理解するのを放棄してしまいます。
いえ、放棄したかったのかも知れません。
その言葉に、真先に思い浮かぶビジョンが、きっと、質問の答え。
黒く流れる髪。
闘いの中に身を置いているとは思えない、白い肌。
決して、私を映すことはない瞳。
そして、私の大好きな、静かな笑顔。
恋をしたことなら、
『あります』
あれを、恋と呼べるのなら。
でも、この歌詞のヒロインのように、私はあの方に我儘は言えなかった。
言えるはずがなかった。
きっと、なにを言ったって、あの方は、私をどこへも連れて行って下さりはしないでしょうから。
Fly me to the moon.
私を月まで連れてって。
私が貴方に求めたら、貴方はなにを下さったのでしょうか。
黄泉さま。