H×H

□Eyes on Me
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 瞼越しに、陽光を感じる。赤く見えるのは、薄い皮膚の下に分布する、血管の色。血の色だ。



 自分の覚醒を、自分の脳に確認して、瞼を開けた。眼前に張り巡らされた桜の枝が、青空を区切って、少し蜘蛛の巣に似ていた。



 学校の備品である机を何個も並べ、その上に、これも備品であろうカーテンを敷いただけの、固いベッド。



 よく、こんな寝心地で居眠りが出来るな。



 私は、このベッドの作り主をイメージして、深く細く息を吐いた。



 ゆっくりと上半身を起こす。この瞬間の、血液が頭から身体に下がる感覚は、いつも不愉快だ。血圧が低いのだろうか。低そう、とはよく言われるが、実際に数値を測定したことはない。



 蜘蛛の巣のような桜の枝は、視界の上方に。



『おはよ』




 私の傍らに腰を下ろしていたレインが、ゆっくりと振り返る。いつの間に来たのだろう。寝る前は居なかった。こんなに近くに寄られるまで気が付かなかったなんて、余程、熟睡していたようだ。



『駄目だよ、コンタクトしたまま寝たら。目、くっついちゃうよ』



 髪を風に遊ばせながら、レインが笑う。穏やかな笑い方は、私には真似できないに違いない。



「いま、なん時だ」


『十二時半』


「十五分も寝ていないな。このくらいなら、睡眠の内に入らんさ」


『クラピカの割りには、強引な理屈だね』




 座った態勢のまま、覗き込むように私に近付くレイン。真っ直ぐに見つめる瞳は、相変わらず煌めいている。


 レインは顔を近付けて、キスするように囁いた。



『目、赤い。嫌な夢だった?』



 言われて、思わず視線を外す。


 右手で両目を隠そうとして、瞳の違和感に気が付いた。



「よく分かったな」


『色味が違うもん。慣れたよ、もう』




 そう言って、レインが柔らかく微笑む。



 目の色を隠すためのカラーコンタクトだと言うのに、レインの前では、なにも意味は為さないらしい。気を付けなければ。私が、最も、感情を隠したい相手は、レインに他ならないのだから。



 意識して、瞳の色を戻そうと試みるが、上手くいかない。神経が機能していないようで、気持ちが悪かった。



『大丈夫?顔色、悪い』


「健康状態に問題はない」


『分かってるよ。クラピカが自己管理を怠るわけないもん。

 そうじゃなくて』


「いつもと同じだ。同胞の夢」



 俯いて答えると、レインが、『そう』とだけ呟いた。



 瞼を閉じて、夢のなかで眼球を失った同胞を思い出す。実際に、その現場に居たわけではないのに、想像力とは、恐ろしいもので、夢のなかでは、眼球を刳り貫かれる仲間の悲鳴や表情まで、リアルに再現され、補完されている。



 そして、訴えられる。


 取り戻せ、と。



 赤い、赤い、血の涙を流す



 その眼窩で。




『クラピカ、うちに来た頃、いつも、目、赤かったよね。私、泣いてるんだと思たもん』



「そうだったな。あの頃は、感情の制御が、まだ未熟だった」



 幼い頃の話を持ち出され、私は笑った。自嘲だ。


 レインの父君、私が先生と呼ぶ人物に拾われた頃は、同胞を殺されたショックで、他者との接触を極力断っていた。今にして思えば、ストレス障害を引き起こしていたのではないか、と自己分析している。



 あの頃は、なにもかもが死んでいるように見えた。だが、すぐに、死んでいるのは自分の瞳の方なのだ、と考えるようになった。


 きっと、自分の瞳も盗まれたのだ。いや、盗まれなければならなかった。盗まれた筈。


 色彩など感じなかった。

 逆に、視覚情報自体に、違和感すらあった。



 ただ一つ、私の瞳を覗き込みながら、首を傾げていたレインを除いて。




『泣いてるの?目、赤いよ』



 レインは、ぎりぎりまで顔を近付けて聞いてきた。


 まだ、レインの名前も知らなかった。


 自分よりも年下の少女に、慰められているように思えて、悔しくて、私は、吐き捨てるように答えた。



「泣いてなど、いない。

 私の瞳は、もう、涙は出ない」


『そうなの?どうして?』


「私は、死んだも同然だからだ。涙は、生きている者が流すものだ」


『死んでいるの?』


「そうだ」


『こんなに、綺麗なのに?』


「綺麗?」


『あなたの目、すごく綺麗。きらきらしてるの』


「クルタ族の赤い瞳は、世界七大美色の一つだ。生きたまま瞳を取り出さなければ、この色は保存出来ないとまで言われている」



 わざと、残酷な言い方を選んだ。この少女が、私を恐れるように。



 だが、レインは、大きな瞳を煌めかせて、『ほら』と言った。



『生きていなくちゃ、綺麗じゃないなら、あなたは、やっぱり、生きているんだよ』







 私の世界に、色彩が戻った。







 春先でも、風は、まだ、冷たい。淡い色の空は、春らしくもあるが、少し寒々しくも見えた。




『私さ、クラピカが泣いてるとこ、見たことないんだよね、結局』



 淡い空を見上げながら、レインが呟いた。風に消え入りそうな微かな声だったが、その言葉は、確実に、私の鼓膜を振るわせた。



 そう。


 私は、結局、泣けていない。


 レインと出会い、色覚を取り戻したこの瞳も、涙を流す機能は、失われたままだ。



「そうだな。私も、泣くという感覚を、忘れてしまったよ」



 きっと、もう、泣けないのだと思う。


 生きていると自覚しても、誰かのために泣けるほど、私の命は高尚ではない。




 風が、少し、冷たい。その冷たさは、私の感情の温度を下げて、冷静さを取り戻させた。少し、意識を集中させて、瞳の色を元に戻す。



 今度は、上手くいったようだ。




 レインは、少しだけ困ったような表情をすると、沈黙して俯いた。何かを考えているようだ。



『よし、決めた』


「なにをだ」


『私の今年の目標。

 今年の目標は、クラピカを泣かせることにする』



 右手で小さな握り拳をつくり、上斜め前方を見つめながら、レインは妙なことを口にする。




 私を、泣かす?





 理解不能なその言葉に、私は意識的に眉を歪め、レインを見つめた。



 私の視線に、レインはにっこりと応える。思い切り、疑わしい視線を送っている筈なのだが、レインはそれが見えないような笑顔だ。



「なんだ、それは」



『ん。泣けるくらい、幸せにしてあげるってこと』




 真直ぐ私を見据えるレイン。



 素直な視線に、真意を探るのさえ、忘れてしまった。




『幸せにしてあげる』



 レインが、もう一度言う。



 風が吹いたが、今度は、寒いとは思わなかった。



 髪が風に遊ばれるのを、レインは必死に両手で防いでいる。目に髪が掛からないように、瞼を閉じて、風が止むのを待っているようだ。




 まったく、




 なんという、




 無防備。





『ん?―――んんっ!ぅ、ん、‥‥んぅ?』



 驚いたレインが瞳を大きく開くが、もう、遅い。


 私は、レインの両頬に自分の掌を添えて、その小さな唇にキスをしていた。



『‥ぅん、‥‥ふ‥ぁ‥』



 温かい唇を割り開き、レインの濡れた舌に絡ませる。震えているのは、戸惑っているせいだろう。今まで、数えきれないほどキスしてきたが、まだ慣れないのか。心のなかで溜息を吐く。



「‥‥ん、‥はぁ」


『―――‥‥‥ぷはぁっ。


 なにすんの、いきなり』

「レインが、俺の台詞を奪うからだ」




 飲み込みきれず、顎に伝った唾液を拭おうとする腕を制し、舌で拭う。私の舌が、レインの唇にまで這い上がったところで、もう一度、触れるだけのキス。




『目くらい、赤くなったらどうよ』



「すまないな。感情のコントロールは、得意なのだよ」




 口角を吊り上げ、唇だけ笑みの形にする。真っ赤になったレインの頬が愛しかった。




『桜、咲きそうだね。蕾が綻んでる』



「そうだな。もう、春だ」




 薄い青色の空を見上げて、頷く。




 願わくば、


 この瞳から零れる雫が、


 この少女と同じものでありますように。




 頬を赤くしたまま、桜の枝に見入るレインを見つめながら、私は心のなかで祈った。






end
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