H×H
□Eyes on Me
2ページ/2ページ
瞼越しに、陽光を感じる。赤く見えるのは、薄い皮膚の下に分布する、血管の色。血の色だ。
自分の覚醒を、自分の脳に確認して、瞼を開けた。眼前に張り巡らされた桜の枝が、青空を区切って、少し蜘蛛の巣に似ていた。
学校の備品である机を何個も並べ、その上に、これも備品であろうカーテンを敷いただけの、固いベッド。
よく、こんな寝心地で居眠りが出来るな。
私は、このベッドの作り主をイメージして、深く細く息を吐いた。
ゆっくりと上半身を起こす。この瞬間の、血液が頭から身体に下がる感覚は、いつも不愉快だ。血圧が低いのだろうか。低そう、とはよく言われるが、実際に数値を測定したことはない。
蜘蛛の巣のような桜の枝は、視界の上方に。
『おはよ』
私の傍らに腰を下ろしていたレインが、ゆっくりと振り返る。いつの間に来たのだろう。寝る前は居なかった。こんなに近くに寄られるまで気が付かなかったなんて、余程、熟睡していたようだ。
『駄目だよ、コンタクトしたまま寝たら。目、くっついちゃうよ』
髪を風に遊ばせながら、レインが笑う。穏やかな笑い方は、私には真似できないに違いない。
「いま、なん時だ」
『十二時半』
「十五分も寝ていないな。このくらいなら、睡眠の内に入らんさ」
『クラピカの割りには、強引な理屈だね』
座った態勢のまま、覗き込むように私に近付くレイン。真っ直ぐに見つめる瞳は、相変わらず煌めいている。
レインは顔を近付けて、キスするように囁いた。
『目、赤い。嫌な夢だった?』
言われて、思わず視線を外す。
右手で両目を隠そうとして、瞳の違和感に気が付いた。
「よく分かったな」
『色味が違うもん。慣れたよ、もう』
そう言って、レインが柔らかく微笑む。
目の色を隠すためのカラーコンタクトだと言うのに、レインの前では、なにも意味は為さないらしい。気を付けなければ。私が、最も、感情を隠したい相手は、レインに他ならないのだから。
意識して、瞳の色を戻そうと試みるが、上手くいかない。神経が機能していないようで、気持ちが悪かった。
『大丈夫?顔色、悪い』
「健康状態に問題はない」
『分かってるよ。クラピカが自己管理を怠るわけないもん。
そうじゃなくて』
「いつもと同じだ。同胞の夢」
俯いて答えると、レインが、『そう』とだけ呟いた。
瞼を閉じて、夢のなかで眼球を失った同胞を思い出す。実際に、その現場に居たわけではないのに、想像力とは、恐ろしいもので、夢のなかでは、眼球を刳り貫かれる仲間の悲鳴や表情まで、リアルに再現され、補完されている。
そして、訴えられる。
取り戻せ、と。
赤い、赤い、血の涙を流す
その眼窩で。
『クラピカ、うちに来た頃、いつも、目、赤かったよね。私、泣いてるんだと思たもん』
「そうだったな。あの頃は、感情の制御が、まだ未熟だった」
幼い頃の話を持ち出され、私は笑った。自嘲だ。
レインの父君、私が先生と呼ぶ人物に拾われた頃は、同胞を殺されたショックで、他者との接触を極力断っていた。今にして思えば、ストレス障害を引き起こしていたのではないか、と自己分析している。
あの頃は、なにもかもが死んでいるように見えた。だが、すぐに、死んでいるのは自分の瞳の方なのだ、と考えるようになった。
きっと、自分の瞳も盗まれたのだ。いや、盗まれなければならなかった。盗まれた筈。
色彩など感じなかった。
逆に、視覚情報自体に、違和感すらあった。
ただ一つ、私の瞳を覗き込みながら、首を傾げていたレインを除いて。
『泣いてるの?目、赤いよ』
レインは、ぎりぎりまで顔を近付けて聞いてきた。
まだ、レインの名前も知らなかった。
自分よりも年下の少女に、慰められているように思えて、悔しくて、私は、吐き捨てるように答えた。
「泣いてなど、いない。
私の瞳は、もう、涙は出ない」
『そうなの?どうして?』
「私は、死んだも同然だからだ。涙は、生きている者が流すものだ」
『死んでいるの?』
「そうだ」
『こんなに、綺麗なのに?』
「綺麗?」
『あなたの目、すごく綺麗。きらきらしてるの』
「クルタ族の赤い瞳は、世界七大美色の一つだ。生きたまま瞳を取り出さなければ、この色は保存出来ないとまで言われている」
わざと、残酷な言い方を選んだ。この少女が、私を恐れるように。
だが、レインは、大きな瞳を煌めかせて、『ほら』と言った。
『生きていなくちゃ、綺麗じゃないなら、あなたは、やっぱり、生きているんだよ』
私の世界に、色彩が戻った。
春先でも、風は、まだ、冷たい。淡い色の空は、春らしくもあるが、少し寒々しくも見えた。
『私さ、クラピカが泣いてるとこ、見たことないんだよね、結局』
淡い空を見上げながら、レインが呟いた。風に消え入りそうな微かな声だったが、その言葉は、確実に、私の鼓膜を振るわせた。
そう。
私は、結局、泣けていない。
レインと出会い、色覚を取り戻したこの瞳も、涙を流す機能は、失われたままだ。
「そうだな。私も、泣くという感覚を、忘れてしまったよ」
きっと、もう、泣けないのだと思う。
生きていると自覚しても、誰かのために泣けるほど、私の命は高尚ではない。
風が、少し、冷たい。その冷たさは、私の感情の温度を下げて、冷静さを取り戻させた。少し、意識を集中させて、瞳の色を元に戻す。
今度は、上手くいったようだ。
レインは、少しだけ困ったような表情をすると、沈黙して俯いた。何かを考えているようだ。
『よし、決めた』
「なにをだ」
『私の今年の目標。
今年の目標は、クラピカを泣かせることにする』
右手で小さな握り拳をつくり、上斜め前方を見つめながら、レインは妙なことを口にする。
私を、泣かす?
理解不能なその言葉に、私は意識的に眉を歪め、レインを見つめた。
私の視線に、レインはにっこりと応える。思い切り、疑わしい視線を送っている筈なのだが、レインはそれが見えないような笑顔だ。
「なんだ、それは」
『ん。泣けるくらい、幸せにしてあげるってこと』
真直ぐ私を見据えるレイン。
素直な視線に、真意を探るのさえ、忘れてしまった。
『幸せにしてあげる』
レインが、もう一度言う。
風が吹いたが、今度は、寒いとは思わなかった。
髪が風に遊ばれるのを、レインは必死に両手で防いでいる。目に髪が掛からないように、瞼を閉じて、風が止むのを待っているようだ。
まったく、
なんという、
無防備。
『ん?―――んんっ!ぅ、ん、‥‥んぅ?』
驚いたレインが瞳を大きく開くが、もう、遅い。
私は、レインの両頬に自分の掌を添えて、その小さな唇にキスをしていた。
『‥ぅん、‥‥ふ‥ぁ‥』
温かい唇を割り開き、レインの濡れた舌に絡ませる。震えているのは、戸惑っているせいだろう。今まで、数えきれないほどキスしてきたが、まだ慣れないのか。心のなかで溜息を吐く。
「‥‥ん、‥はぁ」
『―――‥‥‥ぷはぁっ。
なにすんの、いきなり』
「レインが、俺の台詞を奪うからだ」
飲み込みきれず、顎に伝った唾液を拭おうとする腕を制し、舌で拭う。私の舌が、レインの唇にまで這い上がったところで、もう一度、触れるだけのキス。
『目くらい、赤くなったらどうよ』
「すまないな。感情のコントロールは、得意なのだよ」
口角を吊り上げ、唇だけ笑みの形にする。真っ赤になったレインの頬が愛しかった。
『桜、咲きそうだね。蕾が綻んでる』
「そうだな。もう、春だ」
薄い青色の空を見上げて、頷く。
願わくば、
この瞳から零れる雫が、
この少女と同じものでありますように。
頬を赤くしたまま、桜の枝に見入るレインを見つめながら、私は心のなかで祈った。
end