H×H
□BATHROOMxBIRTHDAY
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『ふはぁ〜。
気持ちいい〜』
体温よりも高い温度のお湯に浸かって、私は天井に向けて、思い切り両腕を伸ばした。
もちろん、なにかを取りたいわけではない。
肩の筋肉を無理矢理引っ張ったのだ。いつから覚えた動作なのか、記憶にないから不思議なのだけど。
そんな動作が、どんどん増えていく。生きるって、きっと、そういうこと。
バスルーム専用の、完全防水の時計を見る。23時30分。あと少しで、明日だ。
今日一日の疲労が、お湯の中に溶けていく。明日への準備を、身体が進めていく。そんな幻想。
柔らかい水圧が、心地よかった。
気持ち良すぎて、寝てしまいそう。
「ダメだよ、お風呂で寝たら◆」
それは、今の私の気分に最も似合わない、人格破綻者の声。
‥あれ?幻聴?
私、寝ちゃったのかな。
‥いやいやいや、私の夢に、あいつに関する情報が出力されること自体、超常現象だ。
ここまで結論付けて、私は認めたくない姿を、視界に収めた。
「や、レイン」
蒸気に包まれて、扉に凭れた長身の影が、右手を挙げる。
この湿気だというのに、髪のセットも顔面のメイクも、崩れていない。不思議に思うが、きっと、タネも仕掛けもないのだろう。
『なんで、あんたが、今、ここに、いるのよ』
肩までお湯に浸かりながら、私はバスタブの隅で丸くなる。なるべく、表面積が小さくなるように。
入浴剤を入れていて良かった。乳白色のお湯は、私の身体の輪郭を暈してくれた。
機動性が落ちそうな靴で、ヒソカはバスルームの床を一瞬で移動し、バスタブに手を掛ける。この男の機動力の前に、ハンデなんてものは存在しないのだ。
「今だから、僕はここにいる◇」
『なに、それ』
「あと30分で、僕の誕生日なんだよね◆」
知りたくもない情報を、ヒソカは提供してくれる。どちらかというと、誕生日よりも、親の顔の方が知りたいと思う。
『だから、なに』
「プレゼントを貰おうと思って◆」
口角を吊り上げて、ヒソカは顔を近付ける。逆上せそうになっているのに、私の顔は青ざめているに違いない。
『プレゼントなんて、用意してないっ』
不気味なくらい切れ長の瞳から視線を逸らさず、私は首を横に振る。
自分からプレゼントを強請るなんて、図々しいヤツだと思う。ヒソカの期待になんか、絶対に応えたくないという気持ち。なんて純情な乙女心。
「準備は要らない◇
僕は、ここにいるから◆」
声を反響させながら、ヒソカは真直ぐ私に近付いてくる。直線距離で。
つまり、それは、バスタブに足を踏み入れるということ。
『ちょっ‥、なに‥っ!』
服が濡れるのを気にも止めず、ヒソカは狭いバスタブでしゃがみこむ。私の、正面に。私を、更に隅に追いやって。
まるで、逃げ道なんかないよ、って言っているみたい。
まったく、裸というのは、なんて無防備な状態なのだろう。
私は抵抗らしい抵抗も出来ず、ヒソカに両手を捕えられてしまった。
ヒソカの大きな掌と長い指は、私の両手を簡単に絡め取る。そして、それは、強靭な握力で縛られる。
「ハッピーバースデー」
『なに、言って‥んんっ』
言葉の途中で、ヒソカに唇を塞がれた。
ヒソカの唇で。
キスされたまま、凶悪な腕力で立たされる。
拒もうにも、両手を捕えられて腰に腕を回されては、私に出来ることはない。
両手を解放されても、私に出来ることはないのだけれど。
顎を捕まれて、角度を変えられて、舌を絡ませられるキスは、映画の中の恋人同士のキスだった。
『ん‥んーーーっ?』
顎を捕まれていることで、腕が解放されていることに気が付く。いけない、いけない。完全に、ヒソカのペースになっている。
解放された自分の両手で、ヒソカの胸を叩く。力が上手く入らなくて、縋るようになってしまったけれど。
ラベンダーの香りの蒸気が、私の体温を上昇させる。駄目だ、逆上せそう。
身体が熱いのは、眩暈がするのは、意識が遠いのは、全て、蒸気の所為だ。
ヒソカのキスの所為なんかじゃない、絶対に。
『‥ぅ‥、んんっ‥』
潜もった自分の声が、バスルームに反響する。その音の中に、甘さが含まれているのを自覚したくなくて、耳を塞ぎたくなった。
この男、どんな筋肉をしているのか。必死に振りほどこうとしても、ヒソカは、一切、ブレない。私だって、鍛錬を怠っているわけではないのに。
『‥はっ‥ぁ、ゃ、ぁっ‥ヒソカ‥っ‥』
お湯とは違う水音が、やけに響く。
顎から滴る水滴は、汗ではないものだ。
「くくっ◇
どうしたんだい?
立っているのも、やっとみたいだけど◆」
『う、うるさ――、ぁ‥んぅっ‥』
反論の途中で、再びキス。
自分が言いたいこと言い終わったら、他人の話は聞く耳なし、ということか。とことん最悪な男め。
でも、そんな最悪な男に、私は、今、浮かされている。
ヒソカの長い舌で、歯列をなぞられると、口蓋を擽られると、脊髄を電流が駆け上がる。
這うように、べったりと駆け上がる、低周波。
それでも、その電流は、熱を伴って、頬を上気させる。
逆上せる。
逆上せてしまう。
体温の上昇と、酸素の欠乏で、私は意識を手放した。
『‥ん』
鼻腔を擽るラベンダーの香りに、私は瞼を上げた。
身体を包むお湯は、すっかりぬるくなっている。
バスタブの縁に両腕を枕にしていることに、自分でも驚いた。
足元のお湯の温度が、胸元よりも若干低いことからも、どれだけ私が居眠りしていたかが分かる。
溺れなくて良かった。
キルアにばれたら、笑われるに違いない。
『‥‥夢?』
だとしたら、なんて悪夢だ。
いや、現実であるよりは、ましか。
夢なら、忘れられる。
しかし、現実であれば、その記憶は、脳の至るところに記録されて、消去したつもりであっても、ふとした時に思い出してしまう可能性がある。
捕まれて手首の痛みや、咥内に侵入した舌の感触まで、身体に刻まれてしまう。
なによりも、ヒソカに蹂躙されている間に、私は意識を手放してしまったのだ。
この現象が現実だなんて、それこそ、本当の悪夢だ。
『‥‥‥出よう』
バスタブの縁に手を掛けて、水面から身体を持ち上げる。
水圧から解放されて、代わりに重力が私を支配する。
髪を掻き上げた瞬間見えた自分の手首に、ぐるりと付いた赤い指跡を、私は見ないフリをした。
end