H×H
□no Border
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「レイン、寒いのか?」
街灯の鈍い灯りを頼りに、感覚に任せて歩くことになった。
話し合うこともなく、なんとなく、二人はそれで納得した。
人も車も通らない道の真中で、レインは肩を竦めて、袖に隠した両手で上着の襟元を頬に寄せている。
上着の隙間を塞いで、冷たい空気が侵入するのを防ぐためだと思われるが、成功しているようには見えなかった。
『うん、少し。
ちょっと薄着すぎたかな』
レインは眉を下げて口角を上げた。複雑なこの表情は、レインが失敗を自覚したときによくするものだった。
「まったく」
溜息と一緒に空気に溶けた言葉は、クラピカがレインの失敗を許容した証拠。
頭から被せられた青いシャツは、クラピカがレインを大切にしている証拠だ。
『有難う』
シャツに移ったクラピカの体温に、レインは肩の筋肉が弛緩させる。
『クラピカは、寒くないの?』
レインがそのシャツを羽織ってしまうと、クラピカの上半身は白いTシャツを纏っているだけだ。
緩やかな半袖から伸びた長い腕が、レインには寒々しく見えた。
「いや、私は大丈夫だよ。むしろ、少し暑いくらいだ」
そう言って、クラピカは大きめの襟刳りを摘んでみせた。
色素の薄い、逞しい胸元が露出する。レインは『そう』と返事をして、視線を外した。『じゃあ、借りるね』
深い青色は、レインに良く似合うと、クラピカは思った。
いや、レインに似合わない色などない。
自分と違って、光の世界に生きているのだから。
まだ明けない空を見上げて、クラピカは瞳を瞑る。カラーコンタクトは、今はしていない。
道を標する筈の街灯でさえ、夜に飲み込まれてしまいそうだった。
「レイン」
立ち止まって、呼び掛ける。
先程見ていた夢を、思い出した。
首を傾げて『なに?』と微笑むレインに、涙が出そうになる。だが、それは実現しない。涙なんて、気のせいなのかも知れない。
「朝になったら、帰れ」
冷たい空気に声がよく響いた。それは意識したよりも大きくて、クラピカは驚いた。
「帰って、もう、来ないほうが良い」
言葉と共に、肺から空気が抜けていく。
レインの表情を見るのが怖くて、目を綴じた。
『どうして?』
暗闇から、レインの声が聞こえた。予想通りの音だった。
「私は、ノストラードファミリーの人間だ」
『知ってる』
「闇の世界の人間だ」
『そうなの?』
「そうだ。
だから、もう、私たちは、会わない方が良い」
視覚を遮断すると、聴覚が鋭くなる気がする。声だけで、眉を下げてこちらを見上げるレインが想像できだ。
表情を見たくなくて、目を瞑ったのに。
暗闇はいつだって、見たくないものを見せるのだから。
『クラピカ、目、開けて』
レインの声と気配が、少し遠い。
目を開いていても綴じていても、レインの顔色が分かってしまうなら、同じことだ。
クラピカが瞼を開くと、三メートル程先の交差点の真中に、レインがこちらを向いて立っている。
歩いて来た道とは垂直に交わる、東西に走る道の先を指差して、一言。『夜明け』
「夜明け?」
『そう。
ほら、こっちおいでよ。よく、見える』
言われるがまま、路地を抜け出て交差点に入る。
車道の真中。だけど、気にはしない。どうせ二人きりだ。
日が昇ることで、方角が判明する。橙と藍が混ざる空の低い位置を見て、クラピカはこちらが東なのかと思った。
『ねえ、クラピカ』
レインが東に一歩、前進する。風が、滑らかな髪を攫った。
『今、この時間は、夜かな。それとも、朝かな』
唐突な質問。レインはいつも唐突だ。
クラピカは少し考える。いや、考えるポーズをとった。実際には考えていない。答えは決まっていた。
「朝、だろう。
太陽が昇ってきたのだから」
クラピカの答えに、レインは『そうかな』と首を傾げる。
それから西を指差して、
『でも、あっちは、まだ、夜だよ』
レインが指差す方向を振り替える。確かに、そこには純粋な夜があった。
『ねえ、クラピカ。
夜と朝でさえ、境界はこんなに曖昧なんだよ』
「え?」
『闇だけの世界なんて、この世にはない、てこと』
向き直る。レインの表情は、影になっていて分からない。
『境界線なんて、人が勝手に決めたことだよ。
真に受ける必要なんて、ない。
光だって闇だって、そんなこと考えてそこに在るわけじゃないよ』
「そんなことないだろう。
無視をしてはいけない境界線だって、いっぱいある」
『例えば?』
レインが後ろで手を組んで近付いてくる。真正面まで来ると、顔を覗き込んだ。互いに、表情が良く分かる。
「例えば、そうだな、‥‥国境とか」
クラピカは、もう少し高尚な答えはなかったのかと後悔したが、レインは納得したように手を打った。
『そうだね。
国境は、勝手に越えたら、国際問題だ』
満面の笑みで、楽しそうに言う。『でも、それだって、いつかのお偉いさんが勝手に決めたものだよ。越えようと思えば、越えられる』
『クラピカは、自分で勝手に境界線を決めてるだけだよ』
レインが踵を上げた。二人の距離が更に近付く。レインはクラピカよりも10センチメートル以上背が低いため、それでもクラピカはレインを見下ろしている。
『クラピカは、極端なんだよ。自分で線を引いて、向こう側を諦めちゃってる』
「そんなこと‥‥」
『ないって、言える?』
クラピカが口を閉ざす。嘘は吐きたくなかった。
「だが、けじめは必要だろう」
レインの両肩を押す。近すぎだ。見境がなくなってしまいそうだった。
レインは仕方ないなあと呟いて、クラピカから離れた。
歩道まで歩いて、小石を拾って戻ってくる。
『じゃあね、クラピカ』
小石をアスファルトに当てて、直線を引いた。念で強化された小石は、アスファルトを波のように穿っていく。
『これが、クラピカが引いた、私との境界線ね』
50センチメートルほどの直線を引いて、レインは直線の向こう側に立つ。
『クラピカなら、どうする?』
漠然とした質問。だが、レインはそれ以上なにも言わなかったし、クラピカも、何も補則を求めない。
クラピカは何も行動に移さない。
レインが満足する答えは知っていたが、自分がそれをするわけにはいかない。
けじめは必要だ。
『私はね、こうする』
言葉とともに、レインが直線を飛び越えた。
クラピカは驚きもせずに、両腕を広げて、迎える。
「国際問題、だぞ」
レインの髪に顔を埋めて、クラピカが静かに呟く。
レインは軽く笑い声をあげて『そうだね』と頷いた。
『じゃあ、一緒に、逃げれば良い』
顔を上げると、驚いたクラピカの瞳が見える。紅くはない。だが、いつもより、水分を含んでいるようだ。
水気を孕んだ睫が揺れる。「そうだな」と、クラピカが微笑むと、それは粒になって、レインに降注いだ。
あたたかい雨のようで、空はこんなに晴れているのにと、レインは笑う。
クラピカの腰を抱き締める。少し、痩せたように思う。
帰ったら、朝ご飯をたらふく食べさせてやろう、とレインは頭の中で決意した。
クラピカの肩越しに、空を見る。
いつの間にか、空は薄い青色で満たされていた。