H×H

□no Border
2ページ/2ページ





「レイン、寒いのか?」 


 街灯の鈍い灯りを頼りに、感覚に任せて歩くことになった。


 話し合うこともなく、なんとなく、二人はそれで納得した。



 人も車も通らない道の真中で、レインは肩を竦めて、袖に隠した両手で上着の襟元を頬に寄せている。


 上着の隙間を塞いで、冷たい空気が侵入するのを防ぐためだと思われるが、成功しているようには見えなかった。



『うん、少し。

 ちょっと薄着すぎたかな』



 レインは眉を下げて口角を上げた。複雑なこの表情は、レインが失敗を自覚したときによくするものだった。



「まったく」



 溜息と一緒に空気に溶けた言葉は、クラピカがレインの失敗を許容した証拠。



 頭から被せられた青いシャツは、クラピカがレインを大切にしている証拠だ。




『有難う』





 シャツに移ったクラピカの体温に、レインは肩の筋肉が弛緩させる。



『クラピカは、寒くないの?』



 レインがそのシャツを羽織ってしまうと、クラピカの上半身は白いTシャツを纏っているだけだ。


 緩やかな半袖から伸びた長い腕が、レインには寒々しく見えた。




「いや、私は大丈夫だよ。むしろ、少し暑いくらいだ」



 そう言って、クラピカは大きめの襟刳りを摘んでみせた。


 色素の薄い、逞しい胸元が露出する。レインは『そう』と返事をして、視線を外した。『じゃあ、借りるね』



 深い青色は、レインに良く似合うと、クラピカは思った。


 いや、レインに似合わない色などない。


 自分と違って、光の世界に生きているのだから。




 まだ明けない空を見上げて、クラピカは瞳を瞑る。カラーコンタクトは、今はしていない。


 道を標する筈の街灯でさえ、夜に飲み込まれてしまいそうだった。




「レイン」



 立ち止まって、呼び掛ける。


 先程見ていた夢を、思い出した。



 首を傾げて『なに?』と微笑むレインに、涙が出そうになる。だが、それは実現しない。涙なんて、気のせいなのかも知れない。



「朝になったら、帰れ」



 冷たい空気に声がよく響いた。それは意識したよりも大きくて、クラピカは驚いた。



「帰って、もう、来ないほうが良い」



 言葉と共に、肺から空気が抜けていく。


 レインの表情を見るのが怖くて、目を綴じた。



『どうして?』



 暗闇から、レインの声が聞こえた。予想通りの音だった。



「私は、ノストラードファミリーの人間だ」


『知ってる』


「闇の世界の人間だ」


『そうなの?』


「そうだ。

 だから、もう、私たちは、会わない方が良い」


 視覚を遮断すると、聴覚が鋭くなる気がする。声だけで、眉を下げてこちらを見上げるレインが想像できだ。



 表情を見たくなくて、目を瞑ったのに。



 暗闇はいつだって、見たくないものを見せるのだから。




『クラピカ、目、開けて』



 レインの声と気配が、少し遠い。



 目を開いていても綴じていても、レインの顔色が分かってしまうなら、同じことだ。



 クラピカが瞼を開くと、三メートル程先の交差点の真中に、レインがこちらを向いて立っている。


 歩いて来た道とは垂直に交わる、東西に走る道の先を指差して、一言。『夜明け』




「夜明け?」


『そう。

 ほら、こっちおいでよ。よく、見える』



 言われるがまま、路地を抜け出て交差点に入る。


 車道の真中。だけど、気にはしない。どうせ二人きりだ。



 日が昇ることで、方角が判明する。橙と藍が混ざる空の低い位置を見て、クラピカはこちらが東なのかと思った。



『ねえ、クラピカ』



 レインが東に一歩、前進する。風が、滑らかな髪を攫った。



『今、この時間は、夜かな。それとも、朝かな』



 唐突な質問。レインはいつも唐突だ。


 クラピカは少し考える。いや、考えるポーズをとった。実際には考えていない。答えは決まっていた。



「朝、だろう。

 太陽が昇ってきたのだから」


 クラピカの答えに、レインは『そうかな』と首を傾げる。


 それから西を指差して、


『でも、あっちは、まだ、夜だよ』



 レインが指差す方向を振り替える。確かに、そこには純粋な夜があった。



『ねえ、クラピカ。

 夜と朝でさえ、境界はこんなに曖昧なんだよ』



「え?」



『闇だけの世界なんて、この世にはない、てこと』



 向き直る。レインの表情は、影になっていて分からない。



『境界線なんて、人が勝手に決めたことだよ。

 真に受ける必要なんて、ない。


 光だって闇だって、そんなこと考えてそこに在るわけじゃないよ』



「そんなことないだろう。

 無視をしてはいけない境界線だって、いっぱいある」


『例えば?』


 レインが後ろで手を組んで近付いてくる。真正面まで来ると、顔を覗き込んだ。互いに、表情が良く分かる。



「例えば、そうだな、‥‥国境とか」



 クラピカは、もう少し高尚な答えはなかったのかと後悔したが、レインは納得したように手を打った。


『そうだね。

 国境は、勝手に越えたら、国際問題だ』



 満面の笑みで、楽しそうに言う。『でも、それだって、いつかのお偉いさんが勝手に決めたものだよ。越えようと思えば、越えられる』



『クラピカは、自分で勝手に境界線を決めてるだけだよ』



 レインが踵を上げた。二人の距離が更に近付く。レインはクラピカよりも10センチメートル以上背が低いため、それでもクラピカはレインを見下ろしている。



『クラピカは、極端なんだよ。自分で線を引いて、向こう側を諦めちゃってる』



「そんなこと‥‥」



『ないって、言える?』




 クラピカが口を閉ざす。嘘は吐きたくなかった。


「だが、けじめは必要だろう」



 レインの両肩を押す。近すぎだ。見境がなくなってしまいそうだった。



 レインは仕方ないなあと呟いて、クラピカから離れた。


 歩道まで歩いて、小石を拾って戻ってくる。



『じゃあね、クラピカ』



 小石をアスファルトに当てて、直線を引いた。念で強化された小石は、アスファルトを波のように穿っていく。



『これが、クラピカが引いた、私との境界線ね』



 50センチメートルほどの直線を引いて、レインは直線の向こう側に立つ。


『クラピカなら、どうする?』



 漠然とした質問。だが、レインはそれ以上なにも言わなかったし、クラピカも、何も補則を求めない。


 クラピカは何も行動に移さない。


 レインが満足する答えは知っていたが、自分がそれをするわけにはいかない。


 けじめは必要だ。



『私はね、こうする』



 言葉とともに、レインが直線を飛び越えた。


 クラピカは驚きもせずに、両腕を広げて、迎える。


「国際問題、だぞ」



 レインの髪に顔を埋めて、クラピカが静かに呟く。


 レインは軽く笑い声をあげて『そうだね』と頷いた。



『じゃあ、一緒に、逃げれば良い』




 顔を上げると、驚いたクラピカの瞳が見える。紅くはない。だが、いつもより、水分を含んでいるようだ。



 水気を孕んだ睫が揺れる。「そうだな」と、クラピカが微笑むと、それは粒になって、レインに降注いだ。



 あたたかい雨のようで、空はこんなに晴れているのにと、レインは笑う。


 クラピカの腰を抱き締める。少し、痩せたように思う。


 帰ったら、朝ご飯をたらふく食べさせてやろう、とレインは頭の中で決意した。



 クラピカの肩越しに、空を見る。


 いつの間にか、空は薄い青色で満たされていた。









前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ