H×H
□予感
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最近、悩んでいる事が一つある。
「はい、今回の分」
毎月十日。正午。指定されたカフェの指定された席。私の正面に座る男は、厚さ1cm程の封筒をテーブルに置いた。封はされていない。中身を確めずに、受け取って、ハンドバッグへ入れた。『どうも』
受け答えが素っ気なくなるのは、仕事の顔をしているから。普段は穿かないロングのスカート、後頭部で前髪を束ねたバレッタ、着地の衝撃を足裏にダイレクトに伝えるローヒールのバレエシューズ。その何もかもが仕事用で、唯一、自分のものではないサングラスが目の前で主張していた。
首元まで留めた釦が、溜息すら邪魔をする。
『それじゃ』
「もう帰るの?半分も飲んでないけど」
『お昼時だよ。ドリンクだけで長居されたら迷惑じゃない』
「店が客を選ぶようになったら、やっていけないと思うよ」
男が言った。窓から射し込む陽の光に、金色の髪がきらきらしている。
昼間はカフェとしてオープンしているこの店も、夕方の準備時間を挟めば畏まったレストランになる。その雰囲気とクオリティは昼間にも影響していて、要するに、敷居と値段が高いということだ。ドリンクだけで向かい合う客に文句を言うような、了見の狭い店ではない。
手元のカップを見る。コーヒーを半分入れたまま、まだ湯気が昇っていた。残すには惜しい。浮かせた腰をもう一度落ち着け、両手でカップを持ち上げた。砂糖もミルクも入っていない。
「似合わないよ、それ」
座ったままのシャルナークが、自分の目尻に人差し指を当てた。大きな瞳。可愛らしい顔立ちをしている。年齢は知らないけど、幼く見えると思う。
私はサングラスを外して、カップの横に置いた。サングラスは以前、クラピカから借りたものをそのまま使っているので、サイズが合わないことは自覚していた。
「でさ」シャルナークがテーブルに頬杖を突く。にっこりと。彼がこの表情をする時は、決まって一つの台詞が飛び出す。「そろそろウチに入らない、レイン?」
ああ、まただ。私は窮屈な溜息を吐いて、カップを置いた。『いや』
『その話はもう21回断った』
「まだ19回目だよ。二回はレインにはぐらかされたからね」
『そんな屁理屈はどうでも良いの。私は目的がよく分からない団体に入るつもりはないし、仕事は一人するのが好きなの』
「だから、ウチが何してるかなんて、入れば分かるよ」
『団体名すら教えないくせに』
「それも入ったら教えてあげる」
話にならない。なんだと言うのだ、もう。私はコーヒーに砂糖とミルクを入れるのを諦めて、煽るように口を付けた。私の心理状態が相手に伝われば良いと考えていた。
『いやなものは、いや』
「残念。団長も、レインの情報収集能力は買ってるのに」
『だんちょう?サーカス団でもやってるの?』
「まあ、そんなとこ」
にっこりと頷くシャルナーク。その魅力に、私のストレスマイレージがどんどん貯まる。
シャルナークは、私の客だ。それも、かなり割りの良い。言われたことに関する情報を提示すれば、あとは自分の判断で処理してくれる。しかも、報酬も他の客に比べて破格だったりする。プロでもない私は、客によっては嘗められている節もあるから、正直、助かる。
あくまでビジネスな関係。それを貫いていた筈なのに。
なにがきっかけなのかは知らないが、シャルナークは会う度に同じことを言ってくる。
「楽しいよ。困ったヤツも多いけど。それも含めて」
正直、困っている。
『私は学校が好きなの。生活の基準を学校以外に移す気はないの』
「大丈夫。拘束時間長い時もあるけど、基本的に自由だから」
『それでもいやです、入りません』
苦い苦いブラックコーヒーを、ゆっくり飲み干していく。酸味が少なくて良かった。レジで豆の販売もしていたし、今度買いに来よう。
今は、苦味を楽しむ余裕はない。少しだけ勿体ないと思う。次はゆっくりしたい、なんて脳内に希望を吐き出す。
最後の一滴を嚥下して、カップをソーサーに置いた。まだカップには温度が残っていた。
『ごちそうさま』と声には出さず呟いて、今度こそ席を立つ。テーブルの上をチェック。大丈夫。忘れものはない。テーブルの端の伝票に触れたら、シャルナークに取り上げられた。
「女の子に払わす趣味はないよ」
彼の趣味趣向は知ったことではないが、伝票は相手の手の中だ。むきになって取り返すのも馬鹿らしい。白昼堂々と戯れるバカップルに見られたら、堪ったものではない。
なにも言わずに、シャルナークに背を向けた。出入口はそのまま真っ直ぐ。テーブルとテーブルの間を歩いて、その間、彼の視線をたっぷりと浴びる。
いやな視線だ。
逃げられない、そんな気がしてくる。
ロングスカートが脚に纏わりついて、罠のようだ。走り去ってしまいたい、そんな衝動を二酸化炭素と一緒に排出した。
自動ドアを潜ると、外は快晴。良かった。もう視線は届かない。罠を抜けれたのだ。肩の緊張を解く。
駅から電車に乗るか、駅前でタクシーを拾うか、迷った。駅に着いたら考えよう。保留にするなんて、私にしては珍しい事だ。相当疲労している。深呼吸、深呼吸。
赤信号に捕まって、鞄の中を探った。サングラスを取り出す為だ。陽射しに弱いわけではないけれど、今日は紫外線が強い。日傘も持って来れば良かったかな。後悔しても、もう遅い。
『あれ?』
おかしいな。忘れものはなかった筈。どこかで落とした?でも、そんな音はしなかった。
どんなに鞄を漁っても、サングラスは見付からないまま。
青信号と共に、流れる人混み。その中で、私は一人、首を傾げていた。