H×H
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私がレインのマンションに着いた時には、全てが終わっていた。
マンションの廊下からでも分かる異質な空気。開け放たれた玄関から先は、静寂という空間が支配していた。
明かりのついていない部屋の廊下は、外よりも温度が低く感じる。硝子の破片かプラスチックの破片か、外からの光を反射して細かく光る床を、私は靴を脱がずに歩いて行った。
家具が壊された部屋のなかで、向かい合って座っている二人。
「遅かったか」
家具の残骸を避けながら部屋に入ると、私に気がついたゴンが顔を上げる。
「クラピカっ」
黒い印象的な瞳が私を捕らえる。荒廃した景色のなかで、その輝きに違和感を覚えた。
「ああ、ゴン、無事だったか」
「うん、オレは平気。それより、レインさんが」
ゴンが困った表情で私を見上げた。彼の正面に座り込んだレインは、まだ一度も私を見ていなかった。
「何度も話しかけてるんだけど、反応がなくて」
「ああ」頷いて、私はゴンに荷物を渡す。荷物と言っても、A3サイズの書類が数枚入った茶封筒なのだが。
膝を抱えて俯いているレインの肩に触れる。細い肩は一度だけびくりと震えて、だが、それだけだった。
レインの正面に膝をついて、彼女の顔を覗きこむように話し掛ける。
「レイン、分かるか、私だ」
目の前にいるのに、分かるか、とは不思議な話だ。だが、今のレインは、それすら確認が必要なほど茫然としていた。
レインの小さな唇が微かに動く。『クラピカ?』
「ああ」
『遅いよ』
「ああ、すまない」
素直に謝って、細い肩を抱く。私の行動に隣に座るゴンが慌てるが、今だけは気にしないでおく。
『ううん、クラピカの所為じゃない。謝らないで』
小刻みに首を振るレイン。その動きが振動になって、私の髪を揺らした。
「いや、結果的に私が悪い。私が遅れたことで招いた事態だ」
私が言うと、レインは少しだけ首を傾げて私を見た。大きな瞳は泣いてはいなかった。
「クラピカ、これ」
後ろで私たちを見ていたゴンが、私を呼んだ。渡した封筒の表の宛名に気が付いたようだ。
「ああ、ネテロ会長に渡されたものだ」
『ネテロ会長?』
レインの肩を放し、ゴンを振り返る。少し興奮した表情で、ゴンは封筒を握り締めていた。
「それを取りに行くために、ハンター協会本部まで行っていたのだよ。まあ、途中で携帯電話が強制的に通話状態になった所為で、詳しい話は聞けなかったが」
携帯電話が通話を始めたのはレインの能力の所為だ。レインの“機巧天使”は空間を飛び交っている電磁波を利用して、目標がどんなに遠くにいても捕捉し、操作することが出来る。
『それで、ネテロ会長は‥』
「ああ、その書類をキルアに渡して欲しいと言われたよ」
そう言うと、ゴンは瞳を大きくした。茶封筒を持つ手に力が篭るが、力を入れすぎて封筒を破かないで欲しいと思う。
『でも、キルアは‥‥』
顔を上げて私を見ていたレインが、再び俯く。責任感の強い彼女が、語尾を濁らせ発言の意図を相手に委ねるのは珍しい。それだけ、キルアのことを気に病んでいるということだ。
私以外の男がレインの感情を支配しているのは少々腹立たしいが、今、その少年はいない。
「そうだな、どうしたものか」
腕を組んで、考える。この場合、書類をキルアに渡すか否かをまず選択しなければならない。
「渡そう」
凛と
強い意思を持った明確な答えが空間を震わせた。
「追いかけて、渡そう、キルアに」
封筒を持ったゴンが、立ち上がって言った。その目は真っ直ぐ私を見て、それからレインを見た。
『でも、もうキルアは帰っちゃったんだよ』
虚ろな瞳でレインが言う。小さく、囁くように。それは、彼女自身が現実を確認する為の行為のようにも見えた。
「うん、キルアは帰っちゃった」当然のようにゴンは頷く。
「だから追いかけようよ、今から。レインさん、キルアの家、知らない?」
レインが両目を大きく見開く。
「それに、クラピカもこの書類をキルアに届けないと、ネテロ会長に叱られちゃうよ」
レインの返事を待たず、ゴンが私に話を振る。私は口元を隠して考える振りをした。「ふむ、確かに」
「書類を届けることは私が協会から任された仕事だからな。全う出来ないとなれば、相応のペナルティは課せられるだろう」
『そんな‥‥』
「ね、だから、キルアを追いかけようよ、レインさん」
レインに右手を差し出すゴン。指先まで力が漲ったその掌を暫く見つめて、レインはゆっくりと首を振った。
『行けないよ』言って、レインは顔を伏せる。
『私、キルアを行かせてしまった』
両手で顔を隠すレインの声は、力なく震える。細く響く声は硝子細工のように繊細だ。
レインの返事に、今度はゴンが目を見開いた。まさか、断られるとは思ってはいなかったらしい。ゴンらしいといえばゴンらしいが。
「でも‥‥」差し出した右手を拳の形にして、尚も詰め寄ろうとするゴン。私はそれを、彼の名前を呼ぶことで制した。「ゴン」
「少し、私に任せてくれないか」
ゴンが驚いたように私を見る。暫くその大きな瞳を見つめていたが、やがて、ゴンから頷いて言った。「分かった」
「じゃあ、オレ、先に外に出てるね」
「ああ、そうしておいてくれ」
力強く微笑まれ、信頼と同時に得る、心地好いプレッシャー。ゴンと行動を共にすると、度々経験する感情だ。
部屋を出たゴンの足音が遠ざかるのを確認して、私は再びレインに向き直った。
俯いたレインの髪に触れると、繊やかな髪がさらりと揺れる。後頭部をゆっくりと撫でながら、私は口を開いた。
「レイン」
呼び掛けると、レインは緩慢とした動作で首を上げる。先程よりも反応が速い。ゴンとの会話で、レインの方にも幾らか余裕が出来たのだろう。
『クラピカ』
私の首に腕を回すレイン。レインから頼って来たことで、私にもある程度の安心感が宿った。彼女の心を解す取っ掛かりが出来たのだ。
私はレインを抱き締めて、再度、彼女の髪を撫でる。
「レイン」
そうして名前を呼んでやると、彼女はいつだって私に打ち明けてくれるのだ。
『クラピカ、あのね』
小さな声を一言一句聞き逃さぬよう、私は無意識に息を潜める。今は外から聞こえる些細な音も煩わしかった。
『私、守れなかった』
「そうか」否定をせずにただ相槌をうつ。レインが言うことは、レインにとっての現実なのだ。否定をしても仕方がない。
『キルア、泣いてたの。嫌だ、って。助けて、って』
「ああ」
『でも、キルアが自分から帰るって言ったとき、私、なにも出来なかった』
私は抱き締める腕に力を入れた。レインが苦しくない程度に。その変化が刺激になったのか、レインの声が泣き声に変わる。
『分かってたの。私たちじゃ、お兄さんに勝てない。キルアが帰らなかったら、私たちが殺される。
だから、私、ゴンくんを攻撃した。気絶させたの。そうでもしないと、ゴンくんが殺されちゃうから。キルアが、折角、私たちを守ってくれたのに、殺されちゃ駄目だって。
でも、キルアは帰りたくないのに。もう、誰も殺したくないのに。だから、あんなに、お兄さんから逃げて逃げて逃げてたのにっ!私が行かせたのっ!』
レインの涙が私の服に染み込む。濡れた箇所は温かくて、もっと泣いて欲しいとさえ思った。
『キルアは』
呼ばれる名が私以外の男のものだというのは、少し腹立たしいが。
『キルアは、もう、殺さないことを諦めなくても良い筈なのに』
圧し殺した声で呟いて、彼女は泣いた。
「そうか、なら‥」私はレインの背中をあやしながら言う。「キルアは、レインとゴンを生かしたのだな」
『生かした?』
「ああ。暗殺一家に生まれ、自身も暗殺者として殺すことを余儀なくされていたキルアが、レインとゴンを生かしたのだよ。それは、あいつにとっても大きな進歩だろう」
レインが顔を上げる。泣き腫らした瞳は充血していて、痛々しかった。
「そして、進ませたのは、レイン、キミなのだよ」
涙を湛えた瞳が、大きく見開かれた。潤んだ瞳に私が写っている。
私は笑っていた。私にもこんな表情が出来るのだなと驚くほど、柔らかな微笑だった。
私の衣服で擦ったのだろう、炎症を起こし熱をもった瞼。右掌でレインの目元を隠すと、興奮と嗚咽で少し呼吸の荒い彼女の唇に目を奪われる。
触れたい。
そう思ったが、理性で自分を制御。
『クラピカの手、冷たくて気持ちが良い』
可憐な唇が笑みの形を作る。その形に、私は安堵の溜息を吐いた。
「もう大丈夫そうだな」
『うん、ごめんね、手間掛けさせて』
「気にするな、レインの世話は慣れているよ」
そう言って立ち上がると、解放されたレインの瞳には明らかな不満が宿っていた。ああ、もう大丈夫だ。
「うむ、もう出発しなければ本当に追い付けなくなるな。レイン、行けるか?」
未だ座っているレインに右掌を上にして差し出すと、小さな手が力強く握り返してきた。