H×H

□5
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 私がレインのマンションに着いた時には、全てが終わっていた。



 マンションの廊下からでも分かる異質な空気。開け放たれた玄関から先は、静寂という空間が支配していた。



 明かりのついていない部屋の廊下は、外よりも温度が低く感じる。硝子の破片かプラスチックの破片か、外からの光を反射して細かく光る床を、私は靴を脱がずに歩いて行った。





 家具が壊された部屋のなかで、向かい合って座っている二人。




「遅かったか」




 家具の残骸を避けながら部屋に入ると、私に気がついたゴンが顔を上げる。



「クラピカっ」



 黒い印象的な瞳が私を捕らえる。荒廃した景色のなかで、その輝きに違和感を覚えた。



「ああ、ゴン、無事だったか」



「うん、オレは平気。それより、レインさんが」



 ゴンが困った表情で私を見上げた。彼の正面に座り込んだレインは、まだ一度も私を見ていなかった。



「何度も話しかけてるんだけど、反応がなくて」


「ああ」頷いて、私はゴンに荷物を渡す。荷物と言っても、A3サイズの書類が数枚入った茶封筒なのだが。



 膝を抱えて俯いているレインの肩に触れる。細い肩は一度だけびくりと震えて、だが、それだけだった。



 レインの正面に膝をついて、彼女の顔を覗きこむように話し掛ける。



「レイン、分かるか、私だ」



 目の前にいるのに、分かるか、とは不思議な話だ。だが、今のレインは、それすら確認が必要なほど茫然としていた。



 レインの小さな唇が微かに動く。『クラピカ?』



「ああ」

『遅いよ』

「ああ、すまない」


 素直に謝って、細い肩を抱く。私の行動に隣に座るゴンが慌てるが、今だけは気にしないでおく。


『ううん、クラピカの所為じゃない。謝らないで』


 小刻みに首を振るレイン。その動きが振動になって、私の髪を揺らした。


「いや、結果的に私が悪い。私が遅れたことで招いた事態だ」


 私が言うと、レインは少しだけ首を傾げて私を見た。大きな瞳は泣いてはいなかった。


「クラピカ、これ」


 後ろで私たちを見ていたゴンが、私を呼んだ。渡した封筒の表の宛名に気が付いたようだ。


「ああ、ネテロ会長に渡されたものだ」

『ネテロ会長?』


 レインの肩を放し、ゴンを振り返る。少し興奮した表情で、ゴンは封筒を握り締めていた。


「それを取りに行くために、ハンター協会本部まで行っていたのだよ。まあ、途中で携帯電話が強制的に通話状態になった所為で、詳しい話は聞けなかったが」


 携帯電話が通話を始めたのはレインの能力の所為だ。レインの“機巧天使”は空間を飛び交っている電磁波を利用して、目標がどんなに遠くにいても捕捉し、操作することが出来る。


『それで、ネテロ会長は‥』

「ああ、その書類をキルアに渡して欲しいと言われたよ」


 そう言うと、ゴンは瞳を大きくした。茶封筒を持つ手に力が篭るが、力を入れすぎて封筒を破かないで欲しいと思う。


『でも、キルアは‥‥』

 顔を上げて私を見ていたレインが、再び俯く。責任感の強い彼女が、語尾を濁らせ発言の意図を相手に委ねるのは珍しい。それだけ、キルアのことを気に病んでいるということだ。


 私以外の男がレインの感情を支配しているのは少々腹立たしいが、今、その少年はいない。


「そうだな、どうしたものか」


 腕を組んで、考える。この場合、書類をキルアに渡すか否かをまず選択しなければならない。



「渡そう」




 凛と



 強い意思を持った明確な答えが空間を震わせた。



「追いかけて、渡そう、キルアに」


 封筒を持ったゴンが、立ち上がって言った。その目は真っ直ぐ私を見て、それからレインを見た。


『でも、もうキルアは帰っちゃったんだよ』


 虚ろな瞳でレインが言う。小さく、囁くように。それは、彼女自身が現実を確認する為の行為のようにも見えた。


「うん、キルアは帰っちゃった」当然のようにゴンは頷く。


「だから追いかけようよ、今から。レインさん、キルアの家、知らない?」


 レインが両目を大きく見開く。


「それに、クラピカもこの書類をキルアに届けないと、ネテロ会長に叱られちゃうよ」


 レインの返事を待たず、ゴンが私に話を振る。私は口元を隠して考える振りをした。「ふむ、確かに」


「書類を届けることは私が協会から任された仕事だからな。全う出来ないとなれば、相応のペナルティは課せられるだろう」

『そんな‥‥』

「ね、だから、キルアを追いかけようよ、レインさん」


 レインに右手を差し出すゴン。指先まで力が漲ったその掌を暫く見つめて、レインはゆっくりと首を振った。


『行けないよ』言って、レインは顔を伏せる。

『私、キルアを行かせてしまった』


 両手で顔を隠すレインの声は、力なく震える。細く響く声は硝子細工のように繊細だ。


 レインの返事に、今度はゴンが目を見開いた。まさか、断られるとは思ってはいなかったらしい。ゴンらしいといえばゴンらしいが。


「でも‥‥」差し出した右手を拳の形にして、尚も詰め寄ろうとするゴン。私はそれを、彼の名前を呼ぶことで制した。「ゴン」



「少し、私に任せてくれないか」



 ゴンが驚いたように私を見る。暫くその大きな瞳を見つめていたが、やがて、ゴンから頷いて言った。「分かった」


「じゃあ、オレ、先に外に出てるね」


「ああ、そうしておいてくれ」


 力強く微笑まれ、信頼と同時に得る、心地好いプレッシャー。ゴンと行動を共にすると、度々経験する感情だ。


 部屋を出たゴンの足音が遠ざかるのを確認して、私は再びレインに向き直った。


 俯いたレインの髪に触れると、繊やかな髪がさらりと揺れる。後頭部をゆっくりと撫でながら、私は口を開いた。


「レイン」


 呼び掛けると、レインは緩慢とした動作で首を上げる。先程よりも反応が速い。ゴンとの会話で、レインの方にも幾らか余裕が出来たのだろう。


『クラピカ』


 私の首に腕を回すレイン。レインから頼って来たことで、私にもある程度の安心感が宿った。彼女の心を解す取っ掛かりが出来たのだ。


 私はレインを抱き締めて、再度、彼女の髪を撫でる。


「レイン」


 そうして名前を呼んでやると、彼女はいつだって私に打ち明けてくれるのだ。



『クラピカ、あのね』



 小さな声を一言一句聞き逃さぬよう、私は無意識に息を潜める。今は外から聞こえる些細な音も煩わしかった。


『私、守れなかった』


「そうか」否定をせずにただ相槌をうつ。レインが言うことは、レインにとっての現実なのだ。否定をしても仕方がない。


『キルア、泣いてたの。嫌だ、って。助けて、って』

「ああ」

『でも、キルアが自分から帰るって言ったとき、私、なにも出来なかった』


 私は抱き締める腕に力を入れた。レインが苦しくない程度に。その変化が刺激になったのか、レインの声が泣き声に変わる。


『分かってたの。私たちじゃ、お兄さんに勝てない。キルアが帰らなかったら、私たちが殺される。
 だから、私、ゴンくんを攻撃した。気絶させたの。そうでもしないと、ゴンくんが殺されちゃうから。キルアが、折角、私たちを守ってくれたのに、殺されちゃ駄目だって。

 でも、キルアは帰りたくないのに。もう、誰も殺したくないのに。だから、あんなに、お兄さんから逃げて逃げて逃げてたのにっ!私が行かせたのっ!』


 レインの涙が私の服に染み込む。濡れた箇所は温かくて、もっと泣いて欲しいとさえ思った。

『キルアは』


 呼ばれる名が私以外の男のものだというのは、少し腹立たしいが。



『キルアは、もう、殺さないことを諦めなくても良い筈なのに』



 圧し殺した声で呟いて、彼女は泣いた。



「そうか、なら‥」私はレインの背中をあやしながら言う。「キルアは、レインとゴンを生かしたのだな」


『生かした?』


「ああ。暗殺一家に生まれ、自身も暗殺者として殺すことを余儀なくされていたキルアが、レインとゴンを生かしたのだよ。それは、あいつにとっても大きな進歩だろう」


 レインが顔を上げる。泣き腫らした瞳は充血していて、痛々しかった。


「そして、進ませたのは、レイン、キミなのだよ」


 涙を湛えた瞳が、大きく見開かれた。潤んだ瞳に私が写っている。


 私は笑っていた。私にもこんな表情が出来るのだなと驚くほど、柔らかな微笑だった。


 私の衣服で擦ったのだろう、炎症を起こし熱をもった瞼。右掌でレインの目元を隠すと、興奮と嗚咽で少し呼吸の荒い彼女の唇に目を奪われる。


 触れたい。


 そう思ったが、理性で自分を制御。



『クラピカの手、冷たくて気持ちが良い』



 可憐な唇が笑みの形を作る。その形に、私は安堵の溜息を吐いた。



「もう大丈夫そうだな」


『うん、ごめんね、手間掛けさせて』

「気にするな、レインの世話は慣れているよ」

 そう言って立ち上がると、解放されたレインの瞳には明らかな不満が宿っていた。ああ、もう大丈夫だ。


「うむ、もう出発しなければ本当に追い付けなくなるな。レイン、行けるか?」


 未だ座っているレインに右掌を上にして差し出すと、小さな手が力強く握り返してきた。






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