Baby,sing a song.
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明け方の森は、まだ朝靄の残る、神秘的な領域でした。
普段は、魑魅魍魎が跋扈しているこの森も、夜と朝が入り交じる時間帯は、静かなもの。
夕暮と明方は、強い妖怪は眠りにつき、淘汰される弱い妖怪たちの時間ですから。
それでも、ある程度は、危険。
魔界、ですから。
私は、昨夜眠りについたままの格好で、癌陀羅の東に位置する森の中を走っていました。
森の奥。
周りからの視線を避けるように、静かに広がる湖を目指して。
『ぅ‥‥ゲホっ…』
私は、濃く重い魔界の障気に、思わず咳き込みました。
今の私の身体は、以前よりも人間に近い。
私の肺は、魔界の空気を拒んでいました。
今までは平気だったのに‥‥
日に日に、人間の身体に成っていっている証拠。
急がなくては‥‥
もう一度、咳をして、口に手をあてて、裸足の足を踏み出します。
不愉快な感触で足下の腐った枝が踏み折れ、顔をしかめたその時、左方向の茂みが不自然に揺れるのを、視界に捕えました。
警戒心から集中力を高めて、息を潜め、全身で空気の変化を読み取ります。
近付いてくる、気配。
まずいな、と、思いました。
足音を隠さず、気配を隠さず、存在を誇示するその気配に、捕食者だということが分かります。
人魚にとって、いえ、今はもう人魚ですらない私には、捕食者となる肉食タイプの妖怪は、脅威でしかありません。
逃げなくては‥‥
しかし、どんなに走っても、森の中を移動する妖怪の足には及びそうにありません。
もう、私の筋肉は、妖怪のそれではないのですから。
瞬く間に近付いた気配は、暗い木々の蔭から、実体を現しました。
‥‥‥大きいな。
素直に、そう思いました。
本当に、見慣れないくらい、身体の大きな妖怪。
足なんか、私の胴体よりも太そうです。
逃げれる?いえ、あんな出鱈目な間合いでは、背中を見せた途端、捕まって、後は、煮るなり、焼くなり‥‥
だって、私、今、半分以上が人間なんです。
人間なんて、魔界に於いては、手放しでも増える、食糧なんです。
‥‥‥食べられるしか、ないんです。
食べられて‥‥死ぬしか‥‥
『あ‥‥い‥』
『いやだ』と、言いたかったのだと思います。
でも、漏れた音は、声と言うには図々しいほど空気を含み、吐き出されるだけ。
喉が渇く。
脈が速い。
汗が滲む。
命の危険を悟った私の身体の、精一杯の生体反応。
意味が無いのに。
死にたくないと叫ぶ私の本能。
諦めろと諭す私の理性。
立ち尽くす、私の眼前には、巨大な四肢を持つ絶望。
絶望は、背後から襲ってくるだけではないようです。
「お前、妖怪か?
ワケのわからん匂いしおって」
巨大な捕食者は、私を舐め回すように眺めます。
「まぁ、いい。
食べ手は無さそうだが、腹も減ってるしな。
取り敢えず、食っておくか‥‥」
取り敢えず、で、私は死ぬのか。
でも、そんなものかも知れません。
私は迫り来る壁のような掌を見つめながら、潔い結論を出しました。
せめて、何も見えない方が楽かも知れないと、眼を瞑ったのと同時に、私は、背後の風の流れが不自然に乱れるのを感じました。