Baby,sing a song.
□3.5
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キラキラ
キラキラ
紗々の声に満たされた空間は、そんな形容が似合うほど、幻想的だった。
彩子の店に訪れる客も、紗々の実力を認めたのだろう。
酒と同様に音楽を愛する客たちは、紗々に次曲のリクエストをしたり、席に呼んで、紗々との会話を求めたり、とりあえず、紗々に対して、友好的に接してくれている。
紗々も紗々で、決して人見知りをすることなく、ステージを降りて、にこやかに客に応えていた。
彩子から借りたドレスに身を包み、しなやかにテーブルの間を擦り抜ける姿は、水の中を泳いでなくとも、人魚のようであった。
それでも、紗々が唄いだせば、客は息を潜め、会話を控える。
決して、無茶な酒の飲み方をしない、マナーのなった客ばかりだ。
その事を彩子に漏らすと、「うちは一見さんお断りだもの」と、微笑まれた。
「みんな、音楽が好きな人たちばかりだもの。そんな人たちが、紗々ちゃんのとびきりの歌声を、邪魔するはずないわ」
「それに、紗々ちゃんの声って、なんか魅力的なのよね。こう、華があって、艶があって、引き寄せられるって言うか」
彩子が、客の一人に呼ばれてステージを降りた紗々を見ながら、うっとりと呟く。
魅力的なのは、人魚の特性でもあるが、やはり、300年の時を唄い続けていた紗々の歌声は、人間には到達しえない貫禄と深みがあった。
「それにしても、すっかりアイドルね。ちゃんと捕まえておかないと、取られちゃうわよ」
いくらか単語の抜けた彩子の話題に、蔵馬は苦笑した。
「だから、付き合ってませんて。俺は、本当に只の付き添いで来たまでです」
「そうなの?でも、紗々ちゃん、貴方のこと好きよ?」
最後の言葉は予想していなかった。
蔵馬は、脳内に在った会話のシミュレーションパターンの全てを見失い、「何故?」と呟くのが精一杯だった。
「うーん…、オンナの勘?」
人差し指を顎に当て、彩子は「よく当たるのよ」と笑った。
「その勘とやらは、一体、いつから身に付いたものですか?」
会話のイニシアチブを取り戻そうと、蔵馬は努めて冷静を装った。
「あらやだ、気付いてたの?」
「えぇ、なんとなく」
やっと笑顔が作れるようになった。
相手に主導権を握られている会話は、落ち着かないものだ。
「なんだー。驚かせようと思ってたのに、残念」彩子がさして残念そうでなく、言った。
「大丈夫ですよ。紗々は気が付いてませんから、機会があったら、驚かせてみて下さい」
「そうね。そうするわ」
「でも、残念でしたね。その勘も、今回は外れのようですよ。彼女、好きな男がいますから」
「あら、そうなの?」
彩子は余程驚いたのか、酒を作る手を止めて言った。
「ええ、だから現時点では、少なくとも、俺の片思いです」
「そうかー。残念だわぁ。初めてよ、あたしの勘がはずれたの」
彩子が「なんか南野くんには、予想を裏切られてばかりだなぁ」と呟いた。
「すみません。性格がひねくれているもので」
蔵馬が慣れた笑顔で応えると、彩子は不満そうにする。
「南野くん、本当に高校生?後先、怖いなあ」
「それはどうも」
「紗々ちゃんは紗々で、高校生とは思えないほど、純粋よね」
彩子は「でもあの発育は、中学生には見えないしなぁ」と続けた。
「相当優しい男のね、あの子が恋するなんて」
「優しい?」
どうにもピンとこない単語に、蔵馬は聞き返した。
優しい…あいつが…
「まあ、紗々にとっては、誰よりも優しい男になるんでしょうね」
「あれ、知ってるんだ?ね、どんな人よ?…て、南野くんには辛いハナシか」
「構いませんよ。…そうですね、俺の所為で、目が見えなくなった男、かな」
「おっと」彩子は、グラスを落としそうになる。
「南野くん、アナタ、若いくせにいろいろ背負いすぎよ。それでその貫禄?」
「さあ、どうでしょう」
「そうかぁ…それじゃあ、南野くんにとっては、少し複雑かぁ」
カクテルをグラスに注ぎながら、彩子は言った。グラスの形に収まる液体は、翡翠色をしていた。
「いえ、関係ないですよ」蔵馬は口元だけで微笑んだ。
その表情が、挑戦的に見えたのか、彩子は笑う。
「あら、いいわねー。やっぱり、男の子はそれくらい情熱的じゃなきゃね」
彩子は、蔵馬の前に翡翠色のグラスを置いた。
「さ、飲んで飲んで。私のオゴリよ。乾杯しましょ」
見れば、彩子も同じ色のグラスを手に持っていた。
「乾杯って、何に?」
「そうね、二人の秘密に?」
「いいですね」
蔵馬が「じゃぁ」とグラスを掲げた。
軽く、澄んだ音が二人の間に響いた。