Thank YOU
□意味もなく、美しかった
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階段を昇り切り、南野秀一は溜息を吐いた。目の前には頑丈な鉄の扉。この校舎のなかでは比較的頑丈とい言うだけだが、その扉は屋上とのエリアを区切る為のものだ。
扉の向こうは雨が降っていることを知っていたので、秀一は先程昇って来た階段の最上段に座った。三月に入っても、空気はまだ冷たい。更に今日は湿気も含んでいる。その空気は雨音と一緒に、こちらに歩いてくる足音も秀一に伝えた。
『こんな所に居たんですか』
足音の少女は階下から姿を現すと、階段の下から南野秀一を見上げた。
「##NAME1##こそ、なにしてるんです、こんな所で」
秀一は階段を昇って来る##NAME1##に聞いた。盟王高校の制服を着た##NAME1##は、秀一よりも一学年下だ。
それはつまり、今日卒業しないと言うこと。
『生憎の天気ですね』
「その言葉は、さっき15回くらい聞きましたね」
生憎の天気とは、一体どんな天気なのだろう。マラソン大会の日に雨が降っても、誰も生憎の天気とは言わない。毎日雲に覆われていた魔界の空を思い出しながら、秀一は笑って返事をした。そんな言葉が聞きたいわけではないと言うことは、##NAME1##も理解している。
『二年女子が探してましたよ、南野先輩のこと』
言いながら、##NAME1##は秀一の隣に座った。秀一を探している二年女子のなかに、自分も含まれていることは言わなかった。言ってしまっては、この男は得意気に笑うに違いないのだから。南野秀一は常に笑顔だが、その笑顔の理由が自分自身ではなくても良いと、##NAME1##は考えていた。
「そうですか、式も終わったんだから帰れば良いのに」
『最後に、南野先輩の思い出が欲しいんじゃないですか。先輩、自由登校中、殆ど学校に来なかったし。まあ、思い出と言う名のグッズですけど』
「え、俺、なにかあげた方が良い?」
『一人一人になにかあげてたら、先輩、帰る頃には全裸決定ですね』
##NAME1##は笑いもせずにそう言うと、『ああ、それも一つの思い出ですね』と秀一を見た。
秀一の表情は変わらなかったが、その変化の無さから秀一の感情を観測する技術を##NAME1##は持っている。だから、##NAME1##は秀一の表情に満足していた。
南野秀一を観察していると、目に付くのは長く伸ばした紅い髪。特に手を掛けている様子もないのに、この湿気でも乱れることのない綺麗な髪。今朝の髪の毛のセットに30分以上をかけた##NAME1##には、その髪がとても羨ましかった。
『ああ、髪』
「え?」
『先輩の髪の毛を一本ずつ配って回れば、全裸にならずに済みますよ。ハゲる可能性大ですけど』
暴言とも取れる##NAME1##の発言に、南野秀一は声を上げて笑った。「それは無理ですね」
「俺は、爪の先から髪の毛一本まで##NAME1##のものだから」
穏やかな声は湿度の高い空気に響いて、##NAME1##の脳内に浸透した。水のように抵抗なく受け入れられたのは、自分がその声を欲していたからだ。
それが、##NAME1##にはなにより悔しかった。
秀一は笑っている。今度は##NAME1##が観察される番だった。
本当に
どうして自分は
こんな男を
どうして
どうして
顔が熱い。血圧と心拍数が上がっているのは知っている。顔色は赤くなっているだろうか。それを、南野秀一は観測しているだろうか。
『この雨で、散っちゃいますかね』
何気ない会話を開始。大丈夫。声に振動は見られない。緊張はしているが、フォローは可能。
「桜ですか?まだ咲いてもいませんよ」
『いえ、梅です。桜より好きなんで』
「ああ、梅か。時期的にもそろそろ散るかな」
南野秀一は##NAME1##を見ている。観察の続きかも知れないが、他に見るものがないだけかも知れない。それでも、落ち着かない。
『なにか?』
「いや、俺、今日で卒業なんだけど」
『それで、‥‥ああ、おめでとうだったら、さっきの式で散々言われたじゃないですか』
##NAME1##は言った。雨はまだ降っている。音で判断出来た。##NAME1##は気持ちを悟られないよう、慎重に言葉を重ねた。
『南野先輩、就職するんですね』
「ええ、父親の会社ですけど」
『私も進学やめようかな』
「駄目。##NAME1##は優秀なんだから、大学行った方が良いですよ」
『先輩だって、優秀じゃないですか』
「俺はもう決めたから、大学は必要ないだけ。##NAME1##もよく考えて、後悔しないように」
秀一は##NAME1##の頭を撫でようとして、やめた。代わりに、優しく頬に触れた。今日は##NAME1##が珍しく髪を結っているので、気を使ったのだろう。
南野秀一は、一年先輩なだけの筈なのに、たまにとても大人びたことを言う。いつだって、##NAME1##の迷いを晴らしたのは秀一の言葉。その言葉は、時に親より先生より重みを持っていた。いつまでも、その声で導いてくれる思っていた。今日で終わり。明日から、##NAME1##の迷いに道を示してくれる人はいない。
##NAME1##は自分の足元を見つめた。履いている上履きは、学年の違う秀一のものとは違う色。埋められない年の差。その差はなにがあっても克服出来ないのに、どうしてこんなにも煩わしいのだろう。それは、自分が女に生まれたことと同じくらい、仕方がないことなのに。
『卒業しないで下さい』
##NAME1##は呟いていた。
「それは無理かなあ」
秀一が答えた。雨の音で自分の声が掻き消されたと思っていた##NAME1##は、驚いて秀一を見た。『聞こえたんですか』
「聞こえましたよ、こんなに近くにいるんだから」
『あんなに小さく言ったのに』
「俺が##NAME1##の声を聞き逃す筈ないでしょう」
南野秀一はにっこりと答えた。##NAME1##は溢れ出た気持ちを後悔した。ああ、しまった。この男をいい気にさせてしまった。南野秀一をいい気にさせて、##NAME1##はろくな目に会ったことがない。
『南野先輩と一緒に登校したのは、少しだけ楽しかったので。でも、それだけです』
「途中から、##NAME1##、わざわざ早起きして、俺の電車の時間に合わせてくれましたもんね。俺が##NAME1##に合わせても良かったのに」
『お陰様で、遅刻の回数が減りました。それは感謝しています』
もう一緒に登校できない。そう思うと、これから先の学校生活に意味を見出だせなかった。せめて秀一が大学に行くのなら、自分も同じ大学を目指すのに。
「俺も##NAME1##との電車通学、楽しかったですよ」
ほら、過去形だ。南野先輩は、そうやってすぐに未来を見据えるのだから。
「だから、桜が咲いたら、電車に乗ってお花見に行きましょう」
『え?』
「良い場所、知ってるんで」
南野秀一の声は不思議な言語のようだった。理解するのに時間が掛かった。南野秀一の未来の話に、何故自分が巻き込まれているのだろう。
「それに俺、このまま##NAME1##と会えなくなるのは嫌ですし」
そう言った南野秀一の笑顔が、まるで花のようだった。クラスメートたちが騒ぎ立てるこの笑顔に、自分だけは騙されまいと警戒していた筈なのに。
結局、自分が一番騙されているではないか。
たった一筋、未来を呈示されただけで、こんなにも有頂天だ。
今なら、言えるだろうか。
こんなにも浮かれているのだから。
勢いに任せて、言える筈。
『南野先輩、卒業おめでとうございます』
##NAME1##が言うと、秀一は嬉しそうに嬉しそうに笑って「やっと聞けた」
『言う気になれなかったんです。でも、もう良いです、卒業しても会えるなら』
「良かった、許可が出て。許可が出なかったら俺、留年してたかも」
またそう言う心にもない冗談を。この男のそう言う冗談は、どうにも好きになれない。
『そうなったら、もう先輩じゃなくなるじゃないですか』
「実際卒業するから、俺たちの間に上下関係はなくなるけど」
『じゃあ、これから南野先輩のことなんて呼べば良いですか?』
「##NAME1##の好きに」
『じゃあ』
##NAME1##は迷いなく答えた。
『蔵馬』
隣に座る南野秀一を見ると、綺麗な翡翠とぶつかった。
「それは、駄目」
優しい否定。長く繊やかな人差し指を、秀一は##NAME1##の唇に当てた。そのまま下唇をなぞって、キスするように囁いた。
「それは二人きりの時だけね」
振動せずに浸透する声。
離れていく顔。
頬に掛かる髪
自分を呼ぶ赤い唇。
翡翠の眼差し。
優しい花の香り。
なんて透明な気持ち。
一秒ずつ進む時間が、たまらなく愛しくて。
意
味
も
な
く
美しかった
「今日の髪型、可愛いですね。俺の為?」
『雨の為です』