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□夜空を翔ける星屑
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風のない静かな夜。
穏やかな波がちゃぷん、と音をたてながら船へと打ち当たっている。
昼の間中、雨が止むことなく降り続けたせいか欠けた月の覗く夜空は酷く澄み渡り、星々がよく見えた。そしてそれらを鏡のように映している海もまた、幻想的な美しさを帯びている。

これって水が透けて魚が見えたりしないよな。もしそうなったら明日の朝食に栄養のある一品を加えられるのに。

船の甲板に出て半刻ほどそれらに見とれていたシリウスは思考を切り替え、ぼんやりとそう思った。生憎幻想的な夜空や海にいつまでも見惚れるようなロマンチストになった覚えはない。
寧ろリアリストな俺がいつも気にかけているのは船員達の健康と船の舵、そして何よりも我等が将軍閣下の御身の無事。それに勝るものなど、あるはずがない。
そう。俺にとっては、あの人だけが――


「どうした、シリウス?」
「っ!?閣下、おられたのですか…」
「ああ、反対側の甲板にいた」

もしかしてこの人が気配を消して近付くのはもはや癖に近いのだろうか。…だとしたらとんだ悪癖だが。
そんな部下の苦労も知らず我等が将軍閣下殿は顔にかかった長い銀髪を邪魔そうに後ろへと流していた。
この人がやると普通の奴がやる分には全く気にもしないような髪を後ろへと流す簡単な動作でもどこか気品が漂って見えるのだから、不思議だ。さら、と艶やかな銀髪が月明かりを受けているせいで余計美しく輝く。
しかしこちらを真っ直ぐと見つめてくる紫の瞳は月よりも強い色で爛々と輝き、酷く真剣に見えた。月しか光のない闇の中で、日に焼けることを知らない白い肌が一際目立つ。
無意識にごく、と唾を飲み込む。目を背けてはいけない、と本能が告げていた。


「…なあ、私達はバルバロイとうまく交渉し、無事目的の鉄を手に入れただろう?」

金属の中で柔らかい部類に入る青銅では人を斬る武器としては不相応だ、と言ったのは他でもない…目の前にいる将軍閣下だ。
そしてより簡単に人を殺す為にバルバロイと交渉し、青銅に比べ硬い鉄を無事手に入れることができたのもまた、目の前にいる将軍閣下殿のカリスマ性があっての賜物であった。


「…その勢いも相俟って今ではこの奴隷軍もようやく軍といえるほどまでに大きくなった。そうなった今、恐らくアルカディアへの進軍の日取りも近いだろう」

そう言い切ったのち、今まで真っ直ぐとこちらを見つめていた紫水晶の瞳が僅かに揺らぐ。
ああ、この人はこんなにも儚かっただろうか。ゆらゆらと不安定で、放っておくと消えてしまうような危うさを、持ち合わせていただろうか。

…これではまるで時間が経つにつれ、その存在がなくなってきているかのような――


「…シリウス。アルカディアを無事崩落できたら、私は行かなくてはいけないんだ」
「閣下…どこに行かれるの、ですか?」

嫌な予感がした。冷や汗が背中を伝い流れていくのを鮮明に感じる。どうかこれが、俺の思い過ごしであってほしい。
もしこの人を喪うようなことがあったら、俺は。


「……冥府への、旅路だよ。シリウス」


幻想的な月明かりを浴びながら、柔らかく、寂しそうに微笑う美しい人。
それを見ると何故だか酷く胸が痛んだ。
置いていかないでください、閣下。思わず情けないほど掠れた声で呟く。
それを聞くと俺の愛した人は、また悲しそうに笑った。


「シリウス、出来ることならお前を連れていきたかった…だが、」

…お前は、生きて。
呪いのように脳に浸透する言葉。
嗚呼、いつからだったろうか。この人がこんなにも人間らしい表情をするようになったのは。嗚呼、何故気付けなかった。この人が時折見せる淋しげな表情に、何故気付かないふりをした。
…この人は最初から、そのつもりだったのに。もしかすると、俺は愛する人を救えたのかもしれないのに。


「シリウス、私はね…」


ああ、そういえば。いつだってこの人は大切な話をする時は遠回りに言葉を伝えてくるんだった。
いつもいつも、関係のない話題から切り出して。


(……お前を、愛していた)



だからきっと今回伝えたかったのは、その言葉なのだろう。

夜空にはまだ、何も知らない星屑達が輝いている。


+++


もう、時間がない

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