きら星

どこかで会った人びと
◆おとなしい人 

先週末、実家に行ったら例によって母の容赦ないリクエストにより吉和のウッドワン美術館に連れて行かされた。そこに行くには、今来たばかりの道を引き返さないといけないわけで、小一時間かかる道のりを、この日は四回通ったのである。母と別れて走り出した四回めは、もう目をつぶって運転したいくらいであった。
ところが、途中で大変なことを思いだしたのだ。あまりにも疲れていたため、実家を出る際、父の社に挨拶していなかったことを。「御免!」とそのまま山道を走り続けようとしたが駄目だ。スッキリしないので引き返す。そうして、あの家の前を結局六回その日通ったのだった。
その日、一つ上の学年だったあの家の次男は加計の病院で亡くなった。それを知ったのは二三日後母と電話で話した時だった。
目が丸くて、アンパンマンみたいな赤ら顔の少年だったところまでしか記憶にない。同じ地区だから、大人になってからも地区の作業や祭や葬式などで何回か見かけたはずだが、あまり記憶にない。多分、昔と変わらない赤ら顔だったのだろう。母に至っては、自分が小学校1年から3年までその人の担任だったことを、通夜手伝に行った頃に初めて思いだしたらしい。「おとなしい、やさしい子じゃったから」と、言い訳のように言っていた。
家からの出棺の時、ひっくり返したようなどしゃ降りで「あんなにおとなしい子だのに、やはり家が名残惜しいのか」と母は思ったという。ただし、雨は次第に落ち着き、葬儀が終わる頃には晴れ間も見えたらしい。
母は葬儀会場には行かず、その家の留守番役だった。もうひとりの留守番役のお婆さんと掃除や片付けをしていたのだが、ふと壁に飾られた古い色紙を見つけた。それはうちの父がその家の祭りをした時に描いたものだった。父は祭りを頼まれると、苦手な祝詞作文に取り組み、それが終わると、まだ二階に籠ってちょっと愉しげに色紙にお宮の絵とその家に合う言葉を描いていたという。
だいぶ昔に差し上げたはずのその色紙を見つけたことが、母にはとりわけ感慨深かったようだ。
「ちゃん」付けで呼んでいた頃しか思い出せないので、母がいうほどおとなしい人だったかどうかすらわからない。だが、病状がいよいよ良くないとわかった時、年取ったお母さんに「しわい時は畑が荒れてもええと思うよ。無理しんさんな」と言ったという話からしても、優しい息子だったのだろう。
葬儀に行った姉によると同級生その他が沢山参列し、弔辞を述べる者も泣く、聴く者も泣く、あげくに司会者も間違うで「葬式になりゃせんかった」ということだった。

2010/05/23(Sun) 13:31

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