きら星

どこかで会った人びと
◆野ばらの咲く家 

たとえば源氏物語に出てくるような通い婚が自分の理想だった。現代ではちょっと間違うと二号さんだ。しかしそれはあくまでも嫁入り婚が当たり前な世の中だから、一つ屋根の下にいる方が一号で、別邸で暮らして訪れを待つ方が二号と思われるわけだ。

二号さんにはあまり魅力は感じない。知り合いに「誰かの二号さんである女性が好き」という変な奴もいるが、私にはそういう趣味はない。

以前、付き合っていた彼には長いこと通う年上の女の人がいた。恋人というわけでもないらしかった。彼はその女の人の紹介である女子高生の家庭教師をしていたが、可愛い高校生の事を好きになり、だんだん年上の女の人の元を訪ねる事が減っていった。彼女はある日手首を切って死にかけた。彼の訪れが遠のいたのが原因かどうかはわからない。

という話を付き合っている彼から聞いた私は例によって「いいなあ!!」と思ったわけである。「いいなあ!!年上の女の人の家に通うなんて」

その家は広島のデルタの南、海に近い地区にある市営住宅で、入口に野ばらの藪があるという。それを頼りに何回かそれらしい住宅地を夕方歩きまわったものだ。野ばらの藪がある古ぼけた家は幾つもあった。一番趣のある家を定めて何回か通った。頭の上を蝙蝠がブンブン飛んでいた。

こういう家の中で恋しい人を待ち続けるというのはどんなものだろう。人を待ち続けるというのは大変な事だ。それができるというのはやはり特別な能力なのである。そういう人に一度なってみたいものだと思った。ただそれにはこの自分では難しいというのは解っている。一週間くらい魂を入れ替えてみたいと思ったのである。


必ずまた来ると約束したのに二度と現れない相手を待ち続けて死んでしまった女が幻となって現れたり、鬼になって災いをなしたりという話は昔からよくある。大抵朝になって屋敷だと思ったのは廃墟でまわりには白骨が散らばっていた…ということになるわけだが、男がなぜ何年も訪れなかったかといえば「忘れていた」という信じられない理由だったりする。妙にそれに納得する私である。

私は人が通って来るほどじっとしていられない質なので、結局自分がうろうろ通う事になる。通う方は何だかんだ言って気楽なのだ。行って拒まれれば悲しいが、気を取り直して他所に行けば良いのである。たとえ何処に行っても拒まれたとしても、夜はそういう情けない人間をも包みこんでくれる。一晩中歩き続ければ良いのである。

それに対して誰かに通ってもらおうと思えば、大変な努力が必要になる。まず留守をしたら駄目だからじっとしていなくてはならない。ここにいるという事を発信して惹き付けなくてはならない。また次も来てもらうには気に入られなくてはならない。

つまりは、いわゆる魅力というものを分かりやすい形で常に発しないと訪れる人は無いというわけだ。


世の中にはいつも其処にいて、思い出した時にいつでも立ち寄れる魅力的な女性が沢山いる。平和大通りの画廊の女の人がそんな感じだった。広島に帰って来てふらっと寄るとまるで昨日も会っていたみたいに自然に迎えてくれた。要はどっしりしているのだ。だからといって所帯じみているのでもなくいつも美しい。そういう人はきっと訪れる人も絶えないだろう。

ところが私はどっちかというと魅力的で人気のある人はあまり面白いと思わない。男も女もなんか、性格が悪かったり変だったり、世の中から打ち捨てられているような人の所に脚が向くのである。一つ屋根の下にはとても暮らしたいとは思えないが時々行って嫌がらせでもしてやろう、と思える相手とはなかなか縁が深く、そんな一人が結局隣の長屋にいて今も通い合い続けている…

2012/06/01(Fri) 22:42

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