蛍の光

私が生まれてこのかたほとんどの時間を過ごしてきた「学校」なるものに関する色々です。
◆先生の子供 

学校で生まれ育った私だが、学校がいつもいつも好きだったわけではない。
小学校に上がる頃には山奥の分校巡りの時代が終わり、両親はそれぞれ小中の本校に勤務するようになった。
私は喘息とか「自家中毒」とか風邪とか、とにかくひっきりなしに寝込んでいたので他人よりは学校を休むことが多かった。学校では何故か忘れたがむっつり黙りこんでいて、先生に何か問われても黙っていたらしい。それで、いわゆる「特殊学級」を作って入れるべきだという意見もあったらしい。
同級生にはもう一人知的障害といわれる子がいた。私と2人で「学級」にしよう、という計画だったのだ。
学校で知能検査を受けた時、家に帰って同じ小学校の教員である母からひどく叱られた。私の検査結果が悪かったからで、「お前の知能指数はこれこれで、特殊学級に入るぎりぎりの線だ。職員室で私は大変恥ずかしい思いをした」というのである。そう言われても困る。
大体親が教員でさえなかったら自分の知能指数なんて一生知らずに済むのに、と子供心に恨めしく思ったものである。

「どうせ親2人を合わせて2で割った以上の知能にはならないんだ」と両親は私を見ては嘲るように諦めたように繰り返したものだが、いやそれでは人類の知能はどんどん衰退していくんじゃないか?と子供心に疑問を感じるのだった。

三年生になって、皆で走ってみたら私が一番速かった。これは思いもよらぬことだった。それまで走らせると熱が出るかもしれない、面倒だ、というので体育は見学するのが当たり前になっていたからだ。
速いのは気持ちが良いのでどんどん走るようになった。それとともに少し活発になり、特殊学級にとは言われなくなった。

もう一人の知的障害といわれる子は、記憶力が凄くてテレビのコマーシャルを一日分、滔々と再現してくれる。いつもにこにこして穏やかだし、学級で「記憶力が凄いにこにこした人」というそれなりの位置を占めていた。私もおかげで「むっつりして脚が速い人」というそれなりの位置を占めるようになった。

実は母も、三年生までは何をやらせてもだめで、教師からも同級生からも雑巾のように苛められていたという。それがある時を境に色々な事ができるようになり、終いに首席になり、師範学校も一番で卒業した、という自慢を今や繰り返し繰り返し聞かされる。

私は三年生までの無明の時期も友達とは普通に遊んでいたし、先生からもそれほど酷くは言われなかった。酷かったのは先生である親であった。母はいい気なもので、自分の子供を雑巾のように知能指数コンプレックスになるべく一番罵り苛んだのは御自分だということはすっかり忘れていらっしゃる。

教員の子供は悪くなると言われる所以である。

2010/12/02(Thu) 23:59

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