蛍の光

私が生まれてこのかたほとんどの時間を過ごしてきた「学校」なるものに関する色々です。
◆年中無休の時代 

中学校の部活7月と8月の予定を見た。お盆の1週間は休みだがあとは毎日だ。今時、これが当たり前なのだろう。大会もあるから仕方ないのかもしれない。いや、お盆に休みがあるなんてまだまだ甘いと言われるかもしれない。悪いけれど世の中相当いかれているとしか思えない。

先日組合報が送られてきた。部活の休養日を設置するよう教育委員会に要求したと書いてあった。おかしな話だ。一年中部活をするのは教員ではないか。上の命令でやっている様子は全くない。

私が部活を大概にしろと思う理由は色々あるが、まずは教員のためにならないという事。好きで入れ込んでいるなら良いようだが、すべての教員が入れ込めるわけではない。休日に育児や介護をしたい人、しなくてはならない人が、部活に入れ込まないために肩身の狭い思いをしたり、父兄や生徒の信頼を失うのはおかしい。部活は教員の義務ではないはずだ。

そして、自由時間が極少になるのは生徒のためにならないという事。人間には自由時間と自由時間を使う才覚が不可欠だ。これが欠乏し続けると頭で考えなくなる。流されるだけの人間は流される計算はできるし、流される論理的「思考」もできる。しかし計算や論理的思考は機械の方が得意だ。

人間ならではの思考はもっと不確かでだらだらしたものだが、これがなくなると人間はお仕舞いだと思う。思考は内なる自分との対話である。そのためには傍目にはボーッとせざるを得ない。たしかに、内なる対話がないからといって成績が下がったり学力が落ちたり、経済力が落ちたりはしないだろう。だから世の中の人はボーッとしている若者をむしろ危険なものと思うかもしれない。どうせ、ろくな事は考えていないと思うかもしれない。

だが、人間の世界の危機を救うのはそういう類いの思考だと思う。なぜなら内なる自分と対話できる人は、他者とも対話できる。内なる自分を失った人は他者も失うだろう。それは政治的能力を失うという事だ。既にそんな飾り物の議員が沢山いる。分かりやすい二者択一を求めたり、「決められる」政治家に全て委ねようとする有権者が沢山いる。これは人間ならではの思考が衰退している証拠のように思える。


その元凶の一つがスポーツにのぼせ上がった風潮と年中無休の部活だと言うのは、そりゃちょっとあんたこそおかしいね、と内なる私が言っている。

2012/07/10(Tue) 00:50

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