蛍の光

私が生まれてこのかたほとんどの時間を過ごしてきた「学校」なるものに関する色々です。
◆非情勤 

初任者研修代理でたまに行く学校で、丁度実習生の最終日に行き当たった。この暑いのに黒スーツ姿で直立する実習生に、ベテランの先生が穏やかに説いていた。「教員の仕事は大まかに3つに分けられます。授業に関する事、生徒指導、そして校務分掌で、この3つは大体1:1:1の割合です」

つまり、君はこれまで大変だったろうけどそれは全体の三分の一でしかないのだ、という事を言いたいようだ。「たとえば、授業は一生懸命やるけれど校務分掌をおろそかにするようでは現場の迷惑です」確かに、私のような授業と成績処理しかしないような者は何だか忙しそうな職員室ではちょっと肩身が狭い時がある。指導要領をひもとき授業計画を一生懸命立てたり教材研究を火になってやったりしていると、近くを通りがかった人に「すごいですね、よく研究されますね」と言われる。「経験が浅いものですから、時間がかかってしまいまして…」とか何とかお茶を濁すのが常だが、「呑気に教材研究などしていてすみません」と正直に言うこともある。


「よく勉強されますね」と、あまりしょっちゅう言われると、目障りだからさっさと帰って家でやれという事かとすら思う。それで以前はプロジェクターまで自前で買ったりしたものだ。正規の先生には個人用パソコンが支給される県も多いというのに。
だが私にも学校でやりたい理由がある。コピーをとったり印刷したり、資料を作ったりするには学校が一番だ。大荷物をもって家に帰りたくはない。学校の事をするために何で自分の家の電気代を使わねばならないのかという気もする。

だが、私がしている授業準備や教材研究は最低限のレベルである。すまないが全力を尽くしているとは言い難い。なぜなら私は学校を本業と思っていないし、非常勤というものに教育委員会からも現場からもたいした期待は寄せられていないからである。とはいえ、生徒が私に当たったがために不利益を蒙ってはいけない。だから最低限の事は必ずしようと思っている。


正規の先生達には能力とテクニックがあるから私がするような事を今さらする必要はない。だから授業が三分の一の割合でも良いのだろう。だが、それを踏まえたうえでついつい思ってしまうのだが、いわゆる校務分掌の中で教員が是非ともしなくてはならないことがどれ程あるのだろう。しかも平の教員が。

かの国では、教員は授業のない日は出勤すらせず、時間割も行事の手配も校長がやるというではないか。大体、会計などどうみても事務職の仕事だろう。運動部等も外部のトレーナーの仕事だろう。

一体なぜ日本の学校では先生があそこまでなんでもかんでもやることになっているのか。某学園のように、生徒と一緒に畑作りをしたり給食を作ったりするのはまだ話はわかる。共にすることが教育になると考えることも可能だから。しかし先生が会計したり時間割を組んだりすることが生徒のためになるとは思えない。

教員の仕事を絞って勤務時間を減らし、沢山の事務職を学校に雇えばよいのではないか。教務部とか厚生部とか作ればよいのだ。大学はそうなっているわけだから。しかし色々な事情で今の在り方が良いことになっているのだろう。



私は、チャランポランな分校長と一人の平教員(と、その年老いた母)しかいない学校に生まれ育ったが、誰がやかましく言うわけでもないので呑気な生活だったようだ。そういういい加減な学校が原風景なもので、教員がなんでもかんでも教育できるとは思えない。

教員が校務分掌やら生徒指導やらで長い時間学校に縛り付けられている裏を返せば、生徒も一年中殆どの時間を学校に縛り付けられている。(だからこそ来ない人は徹底的に来ないし、逆に街で悪さをすればよいような人がわざわざ学校に来て悪さする事になるのだろう)教育が人間を一人の公民、おとなにする事だとしたら、学校の中だけで済ませられるわけがない。学校が従順な兵隊を作る所であった時代なら学校内に閉じ込めて脇目もふらせない方が良かったろうが。

学校を託児所にして年中部活をさせておけばまともな大人にしてもらえると考える親がそういう制度を支えているのでもある。
というわけで今のような保護者に学校評価をさせるのは馬鹿げている。むしろ教育を親に大幅に返すべきである。保護者なら子供の教育に責任を負うのは当たり前なのだから。

2012/06/16(Sat) 16:01

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